孤単、冷漠、奢求、崩潰……ネガティブワードが浮き彫りにする、中国社会の「闇」とは?
「ネガティブワード」でググってみる。トップに見受けられるのは、「ネガティブワードはNG」「ネガティブワード禁止」「ネガティブワードはすぐに削除する必要あり」などなど。検索画面の1ページ目に「吐き出せ!ネガティブワード集」という、ネガティブに比較的寛容そうな形容をひとつだけ見つけたものの、ぱっと見での「ネガティブワード」に対する拒否感の強さたるや。要は、これが世間一般の感覚を反映したものなのだろう。
とはいえ、ネガティブをワードとして外に出すことがよろしくないという暗黙の了解があるとしても、日常のなかで心にネガティブを抱くことは、生きるうえでは避けがたいことではあるだろう。仕事や家庭の何気ない場面ですれ違いが起こり、人に対するちょっとした怒りやもやもや、または自分のままならなさへの苛立ちを覚えるようなことは数知れない。もちろん、自分はそんなことはないという人がいたらそれは否定しないが(むしろポジティブ思考のコツをご教示いただきたいとも思うが)、多くの人にとっては、ネガティブはすぐそばにいる、隠れた相棒のような存在であるはずだ。
本書『闇の中国語入門』(ちくま新書)の出発点は、中国語の教科書において「ネガティブ」が隠されていることへの違和感にあったと、現代中国文学とサブカルチャーを専門とする著者の楊駿驍は語る。大学で中国語を教えることになった際、100冊ほどの中国語の教科書に目を通したところ、そこに出てくる会話があまりにポジティブ一辺倒で、また登場人物も優しさや希望、やる気を持った人ばかりで構成されており、「圧倒されるようなもの」を感じたのだと。
13歳までの生活の場とした、自分の知る中国の姿とあまりにかけ離れていると感じたことに加え、「ネガティブ」=「闇」に目を向けることが人間や社会の複雑さを知る要になると考えた楊は、心や社会の闇を表現する言葉の読み解きを通して現代中国の姿を考察することを企図する。そうして生まれた本書は、「闇の中国語」を解説する語学の教科書であると同時に、現代中国文化論としても出色の一冊になっている。
本書は45におよぶ「闇の中国語」を紹介し、それぞれ日本語訳と例文、および使い方と社会的な解説を加えている。そして言葉の解説から、中国に暮らす人々、および中国社会の「闇」が浮き彫りになっていく。
たとえば、「孤単」(正確な中国語の表記は異なるが、サイトの体裁上近い日本語の漢字で表記する。以下同)という言葉についての解説を見てみよう。意味は「孤独である、ひとりぼっちである」ということ。しかし、中国語にも「孤独」という言葉はあり、同じく「孤独である」という意味合いを持っているようだ。では、このふたつの言葉はどう違うのか。「孤独」は大勢の人のなかにいても覚える、どちらかといえば感情についての形容であることに対し、「孤単」は物理的にひとりぼっちである、寄る辺がないことを意味しているという。
そして、今の中国では「孤単」が深刻になってきていることを楊は示唆する。地方では、若者たちはみな北京や上海といった大都市に出稼ぎに行き、農村に老人たちが残される「留守老人問題」が深刻化しているのだと。コロナ禍においては中国は厳しいロックダウン政策を行い、そのせいで出稼ぎに行った者の、つかの間の帰省も難しくなった。そのため、地方の老人たちはより徹底した「孤単」の状態におかれ、深刻化はより進んでいるという。
または、「冷漠」という「冷たく無関心である」という意味の言葉。この言葉は人の思いやりの有無を指すのみにとどまらず、社会や世界に対しても適用されるという。そして、90年代の中国は金と権力が幅をきかせる、過度な市場化によって既存の価値観が一気に解体され、社会の殺伐とした空気感、いいかえれば冷たさがより顕著になったことが示唆される。
上記の例は、言葉の解説から中国社会の考察へリンクさせていくという流れだが、言葉の意味合い、また使い方の変遷を通して、社会情勢の変化が感じられる例もある。
たとえば「奢求」という言葉。「過度の望み」を指す言葉だが、では何をもって「過度の望み」になるのか。中国では先述のロックダウン政策によって経済が大きなダメージを受け、「奢求」の価値は大きく下がったことを楊は解説する。少なくはない人にとって、ブラック企業に就職すること、結婚することさえも「奢求」という認識が広まってしまったのだという。また経済的な苦境に加え、環境汚染問題も近年深刻になり、気持ちよく呼吸をすることさえも「奢求」になりつつあることも語られる。つまり中国では、本来なら「普通」とみなされてもおかしくないようなことでさえも、「奢求」の範疇に取り込まれつつあるのだ。
「崩潰」はどうか。日本語の意味としては「崩壊する」となり、本来は国家や経済、軍事などに用いられることが多いとされているものの、近年はより抽象的な、感情(の抑圧)が限界を迎えたことを表す用法が優勢になってきているという。
楊はこうした変化の理由については、ひとつには「社会と個人の感情は相似のもの」であり、感情も社会集団と同様に、管理や運営が求められるようになったという推測を立てる。ここからは、本来ならば個々人に帰属する感情の揺れ動きが社会の侵食を受けるようになったという、いわばディストピアに向かうような中国の変遷を感じることができるだろう。
ネガティブな言葉を通して、社会の「ネガティブ化」が読み取れる――。ここまでの言及からはひとまずそのように総括できるかもしれない。しかし、「ネガティブ」は「ポジティブ」と表裏一体であり、「ネガティブ」こそが社会を牽引する要にもなりうる。
「崩潰」についての説明をさらに見てみよう。楊は感情的な意味での「崩潰」を、一概に悪いものだとみなしてはいない。先ほど述べたことと重複するが、中国では学業や仕事においての成功という観点から感情に対しても抑圧が行われ、いわばそこへの拒否反応として「崩潰」があらわれる例が少なくはないからだ。かつ「崩潰」はもう耐えられない地点に達したというような、強いニュアンスで使われる言葉であるため、言い方として受け手に要求するのは「頑張れ」「甘えるな」といった応援や非難の言葉ではない。むしろその人への共感や、その人をそこまで追い詰めた状況に、疑念を持つことを要求するケースが多いのだという。そして、その「崩潰」の場面は、SNSなどに現れることもけっして少なくはないことが語られる。