1999年、社会問題化した小説『バトル・ロワイアル』色褪せない「デスゲームもの」の傑作たる理由を考察

■社会問題となった『バトル・ロワイアル』
公開から25周年を迎えた映画『バトル・ロワイアル』が、4月4日から二週間限定でリバイバル上映されるという。もう25年も経ったのか……という気持ちでいっぱいである。
映画による同名小説を原作として作られた作品だ。今となっては遠い記憶となってしまったが、1999年の発売当時、この小説は大いに話題になった。直撃世代の自分としても、あの一連のドタバタはなんだったんだろうと思わないでもない。
【写真】過激な内容で社会現象に『バトル・ロワイアル』のティザービジュアル
あの当時、全国の中学校の教室は「『バトル・ロワイアル』というとんでもない小説があるらしい」という噂で持ちきりだったはずだ。少なくとも、刊行当時中学1年生だった自分のクラスはそうだった。いわく、なにやら中学生が殺し合う話らしい、大変な問題作で、今度は映画にもなるらしい、誰それの兄貴は買ったらしい、などなどなど……。漏れ聞こえてくる「中学校の1クラスの生徒全員が、最後の一人になるまで殺し合いをさせられる」というストーリーは、まさに同時期に中学生だった自分たちにとって大変リアルなものだった。
当時は派手な少年犯罪が続いたことから、この作品をめぐって世相もピリピリしており、2000年11月には国会で文部大臣が映画版『バトル・ロワイアル』についての政府見解を問いただされるという珍事もあった。この小説は、間違いなく当時の世間を騒がせた作品だったのである。今となってはのどかな話だと、しみじみ思う。
自分がそんな『バトル・ロワイアル』をようやく読んだのは、映画になるというニュースが広まった後、中学二年生のころだったはずだ。本自体が分厚いのに驚いたが、読み始めるとそんなことはどうでもよくなった。とにかく面白いのである。1クラスの中学生が全員昏睡させられ、気がついたら見知らぬ孤島に運び込まれている。その島で殺し合いをさせられることが告げられ、各々違う武器とわずかな食料が入ったデイパックを渡される。逃げるもの、腹を括って殺しを選ぶもの、大人に反抗しようとするもの。それぞれの選択肢を選びつつ、中学生たちがどんどん残虐に死にまくるストーリーのスピード感とハードさに、中二の自分はのめり込んだ。
今読んでも、『バトル・ロワイアル』はよくできている。よくできすぎている気がするくらいだ。殺人ゲームである「プログラム」のルールは単純明快。1クラスの中学生が、最後の一人になるまで殺し合うだけ。しかし、このルールを成立させるための仕組みが大変強固なのだ。生徒は爆発物を詰めた首輪を巻かれ、運営側がこれを起爆すれば即死である。プログラムを運営する側が参加者の生殺与奪を握っていること、そしてその象徴として「首輪」というアイテムを使うことは、以降のデスゲームものの定番ギミックとなった。
生徒一人一人の体力や体格差による有利・不利を打ち消すため、与えられる武器をランダムなものにしたという設定も効いている。当たりなら銃など殺傷力の高いものが入っており、ハズレだとフォークなどとても武器とは言えないものが入っている。中には毒薬のようなテクニカルな使い方を要求されるものもあり、ゲームにランダム性を生むための工夫は、そのまま小説に先の読めないスリルをプラスすることになった。
さらに言えば、「ゲーム開始から時間が経つにつれて、進入禁止のエリアが増える(もし進入禁止エリアに踏み込むと首輪が爆発する)」「定時放送によって死亡者が読み上げられる」「24時間死亡者が出なかった場合はノーサイドとなり、生存者全員の首輪が爆破される」といったルールも、大変よくできている。これらのルールにより、陣地に籠城することも逃げることもできなくなり、中学生たちはひたすら殺し合うことを強要される。まさに「最後の一人」を生み出すためだけにチューンされた、ソリッドで残忍なルールである。改めて列挙しても「これしかない」という出来栄えだ。
ルールがしっかりしているので、「もしも自分のクラスが『プログラム』をやらされたら」という想像を膨らませるのも容易かった。『バトル・ロワイヤル』を読んだことで、授業中に「自分だったらこうするだろう」「あいつとあいつなら殺せるな」「この友達と戦うことになったら勝てるだろうか」という想像をパンパンに膨らませることになった中学生は、全国に数えきれないほどいたはずである。この小説の大きな魅力は、ガチガチに固く練り上げられた殺人ゲームのルールそのものにあると言っていい。