中世ヨーロッパは本当に「暗黒の時代」だったのか? 新進の中世史家が考える、多面的な人々の感情
沈黙を破ったクリスティーヌ・ド・ピザン
――続いて本書は世俗の人たちーー特に女性たちの「声」にスポットを当てていきます。
後藤:本書は「沈黙」という言葉のニュアンスを、さまざまに捉えながら自由に変奏しています――メロディーを変えていく意味の変奏ですが。先ほども言ったように、当時は限られた人しか読み書きができなかったので、個人的な心情を一般の人が綴ることはほとんどなくて、そうすると、歴史の中で「沈黙」している人ばかりなんです。その「声」を聞くにはどうすればいいのか。そこで色々な史料を行き来しながら、「沈黙」がいかに破られるか、あるいは破られていないかに注目していきます。
――具体的に言うと本書の「第5章 聖女の沈黙」では、12世紀のドイツで神の声を聞き、教皇・皇帝レベルの面々にさまざな助言をしたヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年-1179年)、自らの肉欲と戦う主体性を持ったイングランド、マーキエイトのクリスティーナ(1096年頃-1155年頃)、さらには、口述筆記ながら自ら『無化せし(単)純なる魂たちの鏡』を著したフランスの「ベギン」であるマルグリット・ポレート(1250年頃-1310年)などの女性たちが紹介されています。この「ベギン」というのは、どういった存在だったのでしょう?
後藤:女性が霊的に高い段階の生活をするには女子修道院に引きこもるというのが一番の在り方だったのですが、修道院というのは限られた数しかないですし、良い家柄でないと入れなかったりもしました。しかも、女子修道院は、男性の修道院よりも厳しく隔てられていて、まったく外に出られなかったりと俗世から隔絶されていました。
ところが12世紀後半から13世紀ごろ、都市が発達すると、世俗世界にとどまったままで敬虔な生き方をする仕方が可能になる。それがベギンです。ベギンは、織物の仕事や家事手伝いなど自分の仕事を持ったままで定期的に集まって、一般の人たちよりも難しい祈りを唱えたり、子どもの世話や病人の世話という慈愛の業をおこないました。もともと中世の農村世界では、女性は子どもを産み育てたら、また農作業を手伝うぐらいしかなかったのですが、都市の発展でそれ以外の職業の選択肢が生まれてきた。そこで、半聖半俗の生き方も出てきたのです。
そこそこの家柄で寡婦になって、家柄ゆえに読み書きを習っている女性がおそらくベギンの有力な指導者層だったと思われます。けれど、権威をもって指導したというより、教え合う水平的なスタンスで、そのあたり、女性的であるようにも感じます。女性的というのは、権力を持たない人たち、という意味で。中世ではヒエラルキー的な上下関係が単に権力にもとづく抑圧ではなく、神の定めた秩序と考えられていた。新しく出てきたベギンも、その世界観を壊すのではなくて、むしろ自分はすごく小さい存在だという認識を突きつめて、その中から限りなく大きな神の存在を見出すのが面白い所です。
――そこからマルグリット・ポレートのような女性が出てきたと。そして最終章である「第7章 沈黙を破る女」では、『薔薇物語』の女性蔑視的風潮を批判した、本書の帯にも肖像画が掲載されているクリスティーヌ・ド・ピザン(1364年頃―1430年頃)が紹介されています。
後藤:クリスティーヌ・ド・ピザンは、職業作家として身をたてたごく初期の女性で、キリスト教世界でイヴと結びつけて貶められてきた女性への価値づけに、ほぼ初めて異議申し立てをおこなったとされる人です。だから日本でもフェミニズムの文脈で知られているかもしれません。そうすると、キリスト教世界である中世から脱しようとしたかのようにも聞こえるんですが、私自身はむしろ、中世キリスト教の世界観に忠実に生きようとした人なのかなと思っています。女性への偏った見方に異議を唱えて、それを文字にして残しているところが珍しくて貴重なのは確かですが、新しい何かを作り出そうというよりも、もっとイエスの精神の根源に戻ろうとしているように見えるからです。根源というのは男も女もなく、神が各々に賜物を授けているはずだという実感ですね。
マーブル状で複雑な中世ヨーロッパの世界観
――なるほど。本書の「あとがき」にもありましたが、彼女たちがやってきたことは、集団の中の秩序を保つための実践的な知恵であって、いわゆる「改革」みたいなものとは少し違うわけですね。
後藤:そうですね。当時は現在のような「生まれながらの平等」という概念はもちろん存在しなかったわけですが、彼女たちはそれを「不平等」であるとも思っていなかった。ただ、イエスの精神の根源に戻ろうと声をあげたときに、自然と女性蔑視的風潮を批判する立場になったのだと思います。私は中世ヨーロッパに生きていた人たちのものの見方や感性というものが、どういうものだったのかに関心があるんです。
――「後世から見てどうなのか」よりも「当時の人々がどう思っていたのか」に焦点を当てるというのは、最近の歴史学のトレンドだったりするんですか?
後藤:文書館にあるような史料を精査することは歴史学の基本ですが、当時の人々の感性を知るために、文学や絵画、音楽など従来の歴史学の史料に含まれなかったものも併せて考えるべきだというのは共有されていると思います。たとえば西洋中世学会などは、歴史学者だけではなく美術史や音楽史、文学研究の専門家も一堂に会する学会です。しかも研究者だけではなく、中世を好きな人なら誰でも歓迎しているんです。そういう開かれた学会と、一つの史料をつぶさに見た成果を発表する、専門家に限定した学会、その両方がうまく機能することが人文学の未来にとって大事なんだと思います。
――なるほど。では最後に改めて、中世ヨーロッパを知ることの面白さはどのようなところにあると思いますか?
後藤:ヨーロッパ人の祖ともいえるゲルマン人やケルト人はもともと典型的な部族社会で、戦闘に強い者を長と仰いで、森や泉、太陽や天体に人智を超えた力を見出す世界観を持っていました。一方で、古代ギリシャやローマから引き継がれるプラトン的な霊肉二元論も、地中海世界には根強い。それに加えて、すべてを創造主の御業に帰すキリスト教的な世界観が浸透していきました。中世ヨーロッパは、その3つが折り重なりながら、マーブル状に組み合わさっているところが面白いところです。ほかにも地域によって、ユダヤ教やイスラームの影響の強い場合もある。そんなふうにさまざまな文化が入り混じって存在していて、どこに注目するのか、誰の言葉を取り上げるかによって、見え方が大きく変わってくる。その調和や混沌に私は魅力を感じます。暗黒の時代だと思われがちな中世ヨーロッパですが、人々の感情に注目してみることで、多面的で興味深い時代だったことがわかると思います。本書を通して、中世ヨーロッパのあらたな一面を見出してもらえたら嬉しいです。
■書籍情報
『沈黙の中世史 ――感情史から見るヨーロッパ』
著者:後藤里菜
価格:1,100円
発売日:2024年7月10日
出版社:筑摩書房