蔦屋重三郎はなぜ江戸庶民の心を掴んだのか? 元祖・メディア王の仕事術

■蔦屋重三郎は“ふてほど”の先駆者!?

櫻庭由紀子『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社/刊)

  2025(令和7)年1月5日から放送のNHK大河ドラマは『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』である。横浜流星が演じる主人公は蔦屋重三郎(以下、蔦重)だ。蔦重は江戸時代中期に活躍した出版業界人であり、出版プロデューサーであった。戦国武将でも幕末志士でもない、こうした立場の人が大河の主人公に起用されるのは異例のことである。

  蔦重は、1750(寛延3)年1月7日に江戸の吉原で生まれた。やがて出版事業に乗り出し、吉原のガイドブック『吉原細見』の出版などで名を馳せる。そして、吉原で培った人脈をもとにヒットを連発、江戸の出版ブームを牽引していった。なかでも人材を見出すことに関しては天性の才能があり、優れた作家や浮世絵師を発掘してはヒットに導いた。

  蔦重が人気作家と組んで発売した出版物が、後世に与えた影響は極めて大きい。江戸時代に培われた“かっこよさ”の概念や“笑い”のツボは、世界的なヒット作となった『呪術廻戦』や『鬼滅の刃』などの漫画やアニメ、小説、芸能にも脈々と継承されているといわれる。また、蔦重がプロデュースした喜多川歌麿や東洲斎写楽の絵にみられる誇張表現が、漫画やアニメに与えた影響は計り知れない。

  今回は、『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社/刊)を執筆した櫻庭由紀子氏にインタビュー。蔦重の生き様は、2024年の流行語大賞に選ばれた“ふてほど”のような現代の感覚ではあり得ないエピソードだけではなく、現代に生きる我々にとっても学べることが多い。稀代のプロデューサーである蔦重の仕事術、そして現代人にとっても魅力的な江戸文化と現在につながるポップカルチャーについて紐解いてみたい。

■蔦重は江戸文化の潮流を作った

『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社/刊)を上梓した櫻庭由紀子氏


――櫻庭さんは落語や講談から江戸時代の文化に関心を持たれたそうですが、蔦屋重三郎に関心をもち、本を書こうと思ったきっかけから伺いたいです。

櫻庭:私は大衆文学や大衆エンタメが好きなのですが、蔦屋重三郎は落語の祖といわれる烏亭焉馬と同じ時代に活躍し、江戸ならではの独自のエンタメを打ち出していった人物として興味を抱きました。特に、寛政の改革の出版統制のなかでも文化を守り抜こうとする情熱をもち、江戸っ子の“いき”と“張り”を体現した人物である点にも引き込まれましたね。

――天明・寛政期は町人文化のエネルギーが爆発した時代と櫻庭さんは評していますが、その中心にいたのが蔦重というわけですね。

櫻庭:蔦重が出版の仕事を始めた時代は、田沼政治の影響で、みんなで商売を発展させようという機運がありました。そんな時代に須原屋茂兵衛が江戸で書物問屋を開業し、黄表紙のブームを鱗形屋孫兵衛が作り上げました。蔦重は後発でしたが、江戸の人々が求めているものを把握して、大衆エンタメを育てあげたことは大きな業績だと思います。

――蔦重の仕事は、現代で言えばどのような仕事なのでしょうか。

櫻庭:江戸時代の書店は、本を売るだけでなく、版元でもありました。蔦重に限らず、鱗形屋も自分のところで売る本は独自の色を出したものを制作して売ったのです。蔦屋は経営者でありながら編集者でもあったし、売れる本を書ける人を探してきて、どうすれば売れるのかまで考え抜いた“出版プロデューサー”と表現すればいいでしょう。

■蔦重は気鋭の出版プロデューサー

――蔦重はベストセラーを連発できた背景には何があったのでしょうか。

櫻庭:江戸時代は封建社会で身分制度が決まっていました。江戸っ子は「こちとら江戸っ子だ、べらぼうめ!」とは言うものの、心のなかには鬱屈したものがあったと思います。そんなとき、下級武士が戯作を始めていました。どんなに頑張ってもお金持ちにならないし、出世できない武士の思いを文章にしていたのです。これに注目したのが蔦重です。本にまとめ、江戸の人々のニーズに結び付けたのです。

――武士が書いたものに対する、庶民の反響はどうだったのでしょう。

櫻庭:江戸の庶民たちから「武士も俺たちと一緒だ」「下級武士は仲間じゃん!」と、共感を集めた本がベストセラーになりました。鱗形屋が出した恋川春町のデビュー作がそうですね。また、山東京伝は庶民上がりですが、風刺っぽい穿った見方が庶民に受け入れられたのです。

――具体的にどんな内容だったのか、気になります。

櫻庭:ただ面白おかしいだけではなく、社会を風刺したものもたくさんありました。幕府への不平不満や嫌味を笑いに変えたり、人情噺にしたり、時にはエッチな話にしたりと創意工夫をしているため、庶民に受け入れられたのではないかと思います。

■蔦重が人気作家を抱え込めた理由

――京伝は蔦重のもとでヒットを飛ばした代表的な作家ですが、もとは作家ではなく絵描きだったのですよね。

櫻庭:京伝は絵師に弟子入りし、挿絵画家として仕事を始めた人です。そこに蔦重が「戯作を書けば?」とアドバイスしたのでしょう。京伝の黄表紙は、蔦重が彼の才能を引っ張り出して書かせたといえます。『江戸生艶気樺焼』や『箱入娘面屋人魚』は現代の感覚ではかなり不適切な話ですし、江戸時代はそういった物語を創作すると、下手をしたらお上に捕まってしまう時代でした。それでも筆を取らせた交渉力が蔦重の凄みです。

――蔦重は春町や喜三二、京伝といった人気の作家を一気に抱え込むことができました。のちに鱗形屋が低迷した影響もあるかもしれませんが、やはり蔦重の人柄による部分も大きかったのではないでしょうか。

櫻庭:蔦重は当時から、男気があると言われていたみたいですね。「何かあったら俺がどうにかしてやる」「俺がお前を売れる作家にしてやる」「お上が怖いなら俺が喧嘩を買ってやる!」といった“いなせ”な面を見せたので、作家もついていきたいと思ったのでしょう。ちなみに、京伝は手鎖になって一度は筆を折っているのですが、それでもまた書かせたのも蔦重の手腕で、凄いなと思います。

――まさに、カリスマ出版プロデューサーにふさわしい仕事ぶりです。

櫻庭:ちなみに、二代目蔦重の時代に葛飾北斎が狂歌の本で挿絵を描いたとき、贅沢だとお上からお咎めがありました。このとき、二代目は北斎に一切の責任がいかないように罪をかぶったそうです。蔦重の教えがしっかり継承されたのだと思います。

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