杉江松恋の新鋭作家ハンティング 朝比奈秋『あなたの燃える左手で』の意欲的な挑戦

朝比奈秋『あなたの燃える左手で』評

 朝比奈秋には三島賞だけではなくて芥川賞もあげてもらえないだろうか。

 先日第169回芥川・直木両賞の候補作が発表された。残念ながら、その中に私の一押し作家の一人である朝比奈秋『あなたの燃える左手で』(河出書房新社)は入っていなかったのである。がっかりだ。でも仕方ない。実力ある作家だからそのうち絶対獲る。

 不思議な小説である。『あなたの燃える左手で』の舞台はハンガリーのとある病院だ。アサトと呼ばれる語り手は日本人だが、父の仕事の都合で高校生の時に渡欧し、ヨーロッパの風土が気に入ってそのままオーストリアの大学に入った。卒業後、初めは鉄道会社に就職したが、事務職に割り振られたことが気に入らずに辞め、ハンガリーの国立大学看護学部に入り直した。事務ではなく、文字通り手に職をつけたかったのである。努力の甲斐あって、内視鏡技師として勤務することもできた。大学で知り合ったハンナという女性とも結婚し、公私共に満ち足りた人生である。そんなある日、左手に違和を覚えて診察を受けたアサトは残酷な宣告を受けてしまう。悪性腫瘍であり、切断しなければならないという。

 今紹介したのは、物語がある程度進んでから明かされる過去である。時制が混乱するほどではないが、前後が多少入れ替えられる形で叙述は進められていく。冒頭に置かれているのは、アサトではない誰かの視点だ。どうやら戦地にいるらしいその人物は、自決のためにプラスチック爆弾を下腹部に巻こうとしている。作業の途中で皮膚に蕁麻疹が出た。どうやら自分には爆弾に対するアレルギーがあるらしい、と自嘲するのが乾いた笑いを呼ぶのだ。

 このくだりがどのような意味を持つのか明かされないままに本編が始まる。アサトが目覚めると病院の中にいる。意識がはっきりしないままに左手を見ると、肘から先に包帯で覆い隠されており、何か大きな塊が埋めこまれた感覚がある。実は、他人の手を移植されたのである。やってきた医師のゾルタンは出来栄えを自慢する。

 「完璧な仕上がりさ。腕の骨も君のサイズに合わせて削ってつけた。まさにフルオーダーメイド、君用の手だ」

 このゾルタンの視点で綴られる章もある。彼にとってアサトの左手は、医師としての技量を誇ることができるショーウィンドウでもあることがそこでわかる。「白人の肉体労働者の手」を移植された「アジア人」にどのような変化が起きるか楽しみだ、と彼は考える。

 医師は政治的に偏った思想の持ち主で、国内の極右集団に近いという噂がある。アサトを見る彼の視線は、何かを連想させるはずだ。ハンガリーはかつてオーストリアと一つで、強大な帝国を形成していた。『あなたの燃える左手に』は第一義として医療小説なのだが、ゾルタン視点の章を経由することで別の要素が加わってくる。話が進行するうちに、ハンナの故郷がウクライナであることも判明する。ロシアによる侵攻が始まったため、彼女の実家は避難を余儀なくされた。ヨーロッパでは幾度となくこうした悲劇が繰り返されてきた。国境は頻繁に変更され、それまでは他国であった領土が突然自国のものになることもあった。あるいはその逆。

 アサトが左手を切断され、他人のそれを移植されたことは国土分断併合の隠喩になっている。クリミア半島からウクライナ本土に向かう列車の中で、ハンナは腕の断面を指でいじりながらたどたどしい日本語で「カワイソウナ、テ」と呟く。

 「イミモナク、キラレテ。カワイソウナ、ウデ、イミモナクノコサレテ。フタツハ、ツナガッテイタモノナノニ……」

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