杉江松恋の新鋭作家ハンティング 最強の主人公を描いた小説『成瀬は天下を取りにいく』の衝撃

『成瀬は天下を取りにいく』の面白さ

 しばらく読んだところで、胸の中に複数のイメージが広がり始めた。

 そういえばあのときこんなことがあったっけ、というような自分自身の記憶だ。次から次に湧き上がってきて止まらなくなったので、一旦落ち着こう、と思ってページを閉じた。

 両手で抱えているのは宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)で、そのときいたのは東京から熱海に向かう東海道線各駅停車の中である。旅行のお供に持って行ったのがこの本だったのである。六篇を収めた連作小説で、巻頭に収められた「ありがとう西武大津店」で宮島は2021年に「女による女のためのR−18文学賞」大賞と読者賞、友近賞を同賞史上初めて独占し、三冠王に輝いた。「小説新潮」2021年5月号に掲載されたときに読んでいたので、いい短篇だと知っていたはずなのに、再読でもやはり衝撃を受けた。

 この短篇は滋賀県を舞台にしている。県庁所在地の大津市唯一のデパートが西武百貨店大津店だ。いや、だった。2020年8月31日をもって閉店し、44年の営業に終止符を打ったからだ。物語は中学二年生の成瀬あかりが同級生で同じマンションに住む〈わたし〉こと島崎みゆきに「島崎、わたしは西武大津店にこの夏を捧げようと思う」と宣言することから始まる。一学期の最終日である7月31日の下校時だ。新型コロナウイルス蔓延の影響でイベントがことごとくなくなった夏休み、お世話になった西武百貨店大津店に毎日通って感謝の意を示そうというのである。滋賀県のローカル局びわテレはウィークデイの夕刻に「ぐるりんワイド」という番組を放送している。その中で行われる西武百貨店大津店での生中継に成瀬が映り込むから、島崎に見届けてもらいたいというのである。

「また変なことを言い出した」と島崎が綴るように、成瀬はおかしな言動のために周囲から変人扱いされている。成績や運動なども抜群なのだが、とにかくスケールが大きく、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「二百歳まで生きる」だった。大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら「あの人すごい」になる、だから日頃から口に出して種をまいておくことが重要、というのが成瀬の理論なのだ。

 成瀬は毎日映り続ける。西武百貨店なのでライオンズのユニフォームを着用して。島崎は成瀬との約束を守り、毎日番組を見る。そのうちにSNSに「西武大津からの中継、いつもいるユニフォームの人が気になる」というつぶやきが投じられる。時には島崎も成瀬につきあって映り込む。

——Twitterをチェックすると、先日成瀬に言及していたタクローさんが「ライオンズ女子が二人になっている!」と書いていた。うれしいとも恥ずかしいともつかない気持ちで胸の奥がじゅわっと熱くなる。

 気持ちに収拾がつかなくなって読むのを中断したのはこのくだりである。なんでそんなことになったのか自己分析してみると、一つは距離の問題だと思われる。Twitterの向こうにいるタクローというアカウントと成瀬と島崎のいるこちら側とがびわテレの画面を通じてつながっており、一つの世界であることがわかる。思い出したのだが、「小説新潮」でこのくだりを読んだときにもやはり熱いものが込み上げてきたのである。2021年、コロナ禍によって世界が小さく分断されていく不安に心を脅かされていた時期だったということもあると思う。だが、タクローというアカウントが自分自身に感じられたせいでもあったのではないか。ページの向こう側とこっち側はつながっている、一つの世界である。そういう感覚で読める小説というのはそれほどない。成瀬と島崎のいる世界は自分が今いるここかもしれない、だが読むという行為者である以上、それが虚構であることを承知してもいる、やはり別のどこかなのだ。そうした思いが一挙に胸をよぎり、惑乱したのである。

 個人的な事情を書かせてもらえれば、舞台が大津であった、というのも大きい。大津は小学生のとき初めて一人旅で行った場所だ。そのとき西武百貨店大津店はもうあったと思うのだが記憶にない。ただ、琵琶湖と広がる青い空を見たことだけを覚えている。その情景が成瀬と島崎の見ている風景と重なったのだ。再読時に乗っていたのは熱海行き東海道線だったが、一瞬米原発京都行の琵琶湖線に載っているかの錯覚を起こした。次から次へと個人的な記憶が蘇ってきたのは、それが引き金なのだと思う。宮島は風景描写が巧みな書き手で、「ありがとう西武百貨店大津店」の終り近く「夏でよかった」と成瀬が呟く場面などは、ありありとその場の光景が目に浮かぶ。

 私が記憶の蓋を開けられたのはそうしたわけだが、本書を読む人はさまざまなところで個人的な体験と物語の符合を感じるはずである。誰の中にもある大切な記憶、たとえば二度と戻れない十代の日々に友人と交わした会話の一つひとつ、あるいは旅先で出会った忘れがたい人の思い出、いつの間にかなくしてしまった宝物、そういったものを引っかけて呼び出すような鉤が随所についている小説なのである。決してノスタルジーに浸るような内容ではないのに過去に思いを馳せたくなるのは、成瀬あかりの十代が輝いているからだろう。その輝きが眩しく目を細めているうちに、自分の昔が思い出されてくるのだ。

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