杉江松恋の新鋭作家ハンティング、〈いきものがかり〉水野良樹の筆名・清志まれによる『おもいでがまっている』が投げかけた嘘

清志まれ『おもいでがまっている』評

 つまるところ、これは嘘の小説なのである。

 嘘にもいろいろある。人を傷つける嘘、やむをえない嘘、そして優しい嘘。どこかに嘘があるということだけは最初にわかる。それがどのような種類の嘘かということがわかるまでの物語だ。清志まれの小説第二作、『おもいでがまっている』(文藝春秋)である。

 複数視点で綴られる小説だが、めまぐるしく切り替わるわけではなく、全五章それぞれに主要な語り手がいる。巻頭にプロローグが置かれていて、ここだけはある人物の一人称の語りだ。集合住宅の一室に生活福祉課の職員が訊ねてきて、住人の男性が応対している場面である。建物が築三十年で彼は中古でそれを買ったこと、今は娘の産んだ孫との二人暮らしであることなどが語られる。固有名詞は一切ない語りなのだが、後の章でそこがサンパレス桜ケ丘6号棟の501号室であること、住人が松野忠之という人物であることが判る。

 第一章の主要な視点人物は上村深春(みはる)、先に松野忠之を訪ねていったのは彼女だ。深春の属する福祉支援課に通報があった。忠之が軽度の認知症らしき症状を示しており、周辺住民との間にもトラブルが起きていた。そのために訪問調査に至ったのである。上司に報告書を提出した深春だったが、そこには書かなかったことがあった。忠之は旧知の人物だったのである。

 孫として一緒に暮らしているはるとという少年と忠之の間には血縁関係がないことが判る。はるとの母親・沙穂と忠之が養子縁組をしたのだ。沙穂はキャバクラで働いていたが、その店長が行っていた詐欺行為の従犯として逮捕され、現在は服役中だという。忠之ははるとにそのことを伝えず、母親は間もなく帰ってくると言い聞かせて暮らしていた。はるとの元には定期的に母親からの手紙が届いていた。

 この状況は、深春にとって既視感のあるものだった。幼少時、母親の志保美が彼女と兄の駿介を置いて突如行方不明になってしまった。訳も分からずに母の帰りを待って兄妹が暮らしたのがサンパレス桜ケ丘6号棟501号室、そして親代わりになって二人の面倒を見てくれていたのが忠之だったのである。あることが起きて駿介と深春は部屋を出なければいけなくなった。その後も志保美とは再会できず、兄妹は二人だけで生きてきたのである。

 事実だけを見れば、松野忠之は幼い兄妹から家を奪い、自分がそこに住み続けてきたということになる。再び部屋に足を踏み入れた深春は、そこが自分たちが追い出されたときのままに保たれていることを知った。調度から何から、すべてが当時のままなのだ。いったいなぜ忠之は、一時は自分が親代わりまでした兄妹から部屋を奪ったのか。そしてなぜ、当時のままの部屋に今も住み続けているのか。

 謎が読者の興味を惹きつけるというミステリーの技法によって小説は進行していく。第二章で深春の兄・駿介の視点が入ってきて物語には奥行きが生まれる。そして第三章で謎の人物である松野忠之の視点に切り替わり、兄妹には見えなかった裏の部分が明かされることになるのだ。平成の過去と令和の現在を往復しながら、作者は丁寧にあったことと起きていることとを描いていく。過去と現在の出来事がさまざまな部分で重なり合うので、事態がすっきり整理された形で頭に入ってくる。込み入った事態を平明に語ろうと作者が努力していることがわかる。

 第三章で見えてくるのは、小説の中心にいるのが松野忠之という人物であるということだ。実直で、どちらかといえば不器用だが、他人の不幸に無関心ではいられなかった男は、ある決断をした。他人から見れば愚かと言われるかもしれない選択をして、以来ずっとそれを通してきたのだ。認知症を発症して自分の生活もおぼつかなくなりかけている男は、それでも一つのことを守り通していた。

 現在と過去がある箇所で重なり、嘘と嘘とがぶつかり合う瞬間が訪れる。そこが小説の山場だろう。嘘は嘘である。それは厳しい現実を和らげるための魔法であるかもしれない。だが嘘と嘘がぶつかり合えば魔法は解ける。現実を直視しなければならなくなる。その瞬間を描き、現実とどう向き合うか、という問いを作者は登場人物に投げかけた。

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