『吾輩は猫である』『長靴を履いた猫』『おまわりさんと招き猫』……「しゃべる猫」なぜフィクションで人気?

「しゃべる猫」なぜフィクションで人気?

 猫は20年以上生きると、猫又という妖(あやかし)の者になるらしい。というのは、畠中恵さんの小説『猫君』で描かれる説だが、古今東西、二足歩行をしたり人の言葉をしゃべったりする猫の物語は、とても多い。日本で代表的な作品といえばやはり夏目漱石の『吾輩は猫である』だろう。それ以前にもヨーロッパでは、17世紀ごろから『長靴をはいた猫』の民話が普及し、ケルト神話にはケット・シーという猫の妖精が登場する。クー・シーという犬の妖精も存在するが、二足歩行で人間のように自由自在にふるまうケット・シーに比べると、番犬としての性質が強く、獣の性質を脱し切れていない。日本においても、猫又に対応するような犬の妖というのは、あまり見かけず、二足歩行で人語をしゃべる犬が出てくる物語も、猫に比べてそう多くはない(ぱっと思い浮かんだのは『鋼の錬金術師』で悲しい結末を迎えたキメラであった……)。

 ただ、警察犬など、人間の相棒として描かれることが多いのは、犬のほうだ。言葉をしゃべらずとも、二足歩行をしなくとも、心を通じ合わせることができたと感じる瞬間は、犬とのあいだには多く生まれる。対して猫は、自由気ままで、こちらの思うとおりには動いてくれないし、ふらりとどこかへ出かけてしまう。ともすると、複数の飼い主を渡り歩いているかもしれない、とらえどころのなさ。決して手中におさめることのできない存在だからこそ、人はその実態を想像したくなるし、もしかしたら妖なんじゃないかという神秘性を見出すのだろう。

おまわりさんと招き猫 あやかしの町のふしぎな日常
『おまわりさんと招き猫 あやかしの町のふしぎな日常』

 たちまち重版しシリーズ化が決定した『おまわりさんと招き猫』(植原翠)は、下町情緒あふれる海辺の町で、交番の看板猫となっている「おもちさん」をめぐる物語。もちろん、ただの猫じゃない。人の言葉をしゃべり、それを隠そうともしない、まんまるにふくらむ焼きもちのような風体をした猫だ。配属されたばかりの新米警察官・小槇悠介が戸惑い気味に「飼っているのか?」と上司に聞けば「どっちでもいいですにゃ」「吾輩はあったかい寝床とおいしいごはんがあるから、ここにいるというだけですにゃ」とおもちさんが答える。不思議以外の何物でもないのに、おもちさんをあたりまえのように受け入れ、「触ると願いが叶うらしい」などとありがたがりつつかわいがる町の人たちも、だいぶ不思議だ。

 けれど、そんなすべての不思議や変をすんなり受け入れる懐の深い空気が、その町にはあるのである。おもちさんいわく〈古き良き、人間の持つ古臭い情念の残っている町〉であるかつぶし町には、おもちさん以外にもときどき、人智を越えた存在が現れる。ある少年が出会った、美しい歌声をもつ人ならざる少女。夏至と新月の重なる夜にあらわれる、百鬼夜行。決して粗末に扱ってはならない、わだつみの石。町のそこかしこには、住む世界の異なる〝何か〟の気配が漂っている。おもちさんは、彼らと人間の縁を、ときに結び、ときに遠ざけながら、その距離感を見守っている。いわば、橋渡しのような存在なのだ。それは、軽やかに気ままに生きる猫だからこそ、できる役目なのかもしれない。

『おまわりさんと招き猫』著者・植原翠インタビュー 「日常の中にある、ちょっと不思議な出来事を書きたい」

マイクロマガジン社のオトナ女子向け文芸レーベル「ことのは文庫」の人気作品『おまわりさんと招き猫 あやかしの町のふしぎな日常』が、…

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