文学フリマ代表・望月倫彦が語る、リアルなイベントの価値 「文章を書く人の数は今が一番多い」

文学フリマ代表・望月倫彦インタビュー

 小説、評論、エッセイ、詩歌、ノンフィクションなど様々な作品の展示即売会である文学フリマ。そこには同人誌をはじめ、CD、電子書籍、Tシャツなどいろいろな形の「文学」が並び、多くの来場者を集めている。間もなく11月20日にも東京で開催されるこのイベントは、2002年の第1回以来、20年におよぶ歴史を持つ。初期からアマチュアに混じりプロの書き手が出店する一方、かつてアマだった参加者が商業デビューした例も少なくない。規模を拡大し続け、東京以外の各地でも即売会を開催するようになった文学フリマ事務局は今年、一般社団法人になった。望月倫彦代表に文学フリマのこれまでとこれからを聞いた。(円堂都司昭/10月31日取材・構成)

「文学フリマ東京35」は11月20日に開催される

絶対続くイベントだと感じた

望月倫彦氏

――文学フリマの歴史は、公式サイトにまとめられていますが、代表自身から始まりをあらためて話していただけますか。

望月:批評家・マンガ原作者の大塚英志さんが、作家の笙野頼子さんとの論争で書いた「不良債権としての『文学』」(「群像」2002年6月号)が始まりです。そこには文学が生き残るためにどうすればいいかが書かれ、アイデアの1つが自分たちで作品を売り市場を作る文学フリマの構想でした。そこには、出版社に頼らずファンから金を集め本を作ることも書かれていて、今でいえばクラウドファンディング。そんな言葉もなかった時代に提案していたのは、批評家であり編集者でもあった大塚さんならではでしょう。

「不良債権としての『文学』」では、参加希望者は「群像」編集部までハガキを送ってくださいとあって、実際にハガキを出した数少ないうちの1人が僕。それで会合に出席したら「まさか本当にハガキを送る人がいたなんてね」という感じ(笑)。「第一回文学フリマ」は、2002年11月3日に都内の青山ブックセンターで開催されました。大塚さんは、開催にかかわった市川真人さん(当時「早稲田文学」編集者)など周囲の人と、前から文学でもコミケ的なことをやればいいと話していたらしい。僕は、第1回では出店者の1人でした。

――どういうものを作って出店したんですか。

望月:当時は大学4年生で大学院に進むことは決まっていた状態。友だちと評論を書いていて、僕は新海誠監督の『ほしのこえ』についてだったんじゃないかな。

――おお、いきなり、文学フリマっぽい。

望月:僕がなぜ出店に応募したかといえば、大塚さんの愛読者だったこともありますけど、日本大学芸術学部文芸科で当時の先生だった伊藤氏貴さんが書いた群像新人文学賞評論部門受賞作の掲載誌を買ったら、「不良債権としての『文学』」が載っていたんです。大塚さんは、「自分がやるのは1回限り。2回目をやりたい人は名乗り出て」といっていました。僕は初回に参加して面白いと思い、1回で終る熱量じゃない、絶対続くイベントだと感じました。それで次の年明けに、第2回の運営側になる人を集めた会合があって、大塚さんの次の代表者を決めることになった。すぐには決まらず次回持ち越しとなりましたが、4月から院生になる僕は、大学院は忙しいだろうけど社会人ほどではないだろうとか考え、伊藤先生に代表をやるべきだと思いますかと聞いたら「やるべきだよ」と即答でした。それで、次の会合では話の流れとしてタイミングを逸した瞬間だったんですけど、無理矢理「僕、立候補しちゃダメですか」といったら、その場にいた10人くらいがシーン……。でも、白倉由美さん(マンガ家、小説家。夫は大塚英志)が「決まりでいいんじゃない」、大塚さんが「じゃあ、決まりで」といって代表になりました。だから、白倉さんに選ばれたような(笑)。

――文学フリマ以前から文学に関心があったんですか。

望月:僕は1980年生まれで『新世紀エヴァンゲリオン』直撃世代。15歳で見ていますから。高校生の時、『エヴァ』本が多く出て、それで評論みたいな世界があるんだと知り、アニメに限らず批評文を読むようになって大塚さんを読み、東浩紀さんを雑誌『クイック・ジャパン』で知った。その流れから、大学では文学理論に触れました。小説やマンガを普通に好きで読んでいたんですけど、『エヴァ』現象をきっかけに作品を面白かったというだけでなく、それについていろいろ考える人たちがいると知ったわけです。

――大学ではゼミ誌を作っていたそうですが、コミケとか同人誌即売会には行きましたか。

望月:文学フリマ以前に行ったのは、コミケくらい。買うだけでしたけど。5歳上の兄がアニメ・マンガ好きで友だちとコミケにブースを出していたので一緒に行きました。円堂さんはけっこう文学フリマ会場でお見かけしますけど、どれくらい来られているんですか。

――東京開催の3分の2以上は行っていると思います。購入した同人誌のいくつかを持参しました。初回に話題になったコピー誌『タンデムローターの方法論』(佐藤友哉、西尾維新、舞城王太郎)も佐藤氏のサイン入りで持っています。同誌を編集した講談社の太田克史氏は、その参加メンバーを核にして翌2003年に『ファウスト』を創刊したんですよね。

望月:太田さんはその後、東浩紀さんと新人批評家を育成選考する「ゼロアカ道場」(村上裕一、坂上秋成、廣田周作、藤田直哉など参加)を催し、第四回関門の課題が同人誌を製作して「第七回文学フリマ」(2008年)で売った冊数を競うもので、大きな反響を呼びました。

外部とコラボしたことで自分たちの内側が見えた

これまで文学フリマにて販売されてきた同人誌

――以前、このサイトで文芸誌各誌の編集長をインタビューした時、ゼロ年代に太田氏から刺激を受けたという方が多かったですが、それには文学フリマでの活動も含まれていた。

望月:第1回と第2回を開催した青山ブックセンターの経営破綻騒動で、第3回からは東京都中小企業振興公社秋葉原庁舎へ移ったんですけど、この会場で思い出深いのが「ゼロアカ道場」でした。講談社の「ゼロアカ道場」は初めての大きなコラボでしたし、文学フリマを知らない人の目にもこの催しが触れる機会になった。逆にその時に批判もされました。

 「参加応募で落選も出ているのに、なぜこんなことをやるんだ」、「人がたくさん来て混乱したらどうする」とかいわれた。僕からすると、イベントを開いているのに「人がたくさん来たらどうする」なんておかしいだろう、この感じはやばい、そういう人がいることがイベントの成長を阻害するとはっきり思いました。諸先輩から文学フリマ的なイベントは過去にもあったがすべてなくなったと聞いていて、「たくさん来たら」批判の時、たぶんそのせいだと気づいた。内輪にこもって自分たちの好きな人だけ集まればいいという発想では、おそらく1000人は越えられない。外部とコラボしたことで自分たちの内側が見えた。その意味で節目でしたし、参加者に主催者として僕からメッセージを送りイベントの方向性を示さないとダメだと初めて感じました。それで次のカタログから、僕の巻頭言を載せるようにしました。

――「ゼロアカ道場」のブースが、階段を上ったところに並んでいたのは覚えています。

望月:列ができるのはわかっていたので階段に並ばせましょうということだったんです。批評の同人誌が500部も売れるんだとみんなビックリしたし、同人活動には「どうせ売れない」という空気がありがちですけど、そうとも限らないという実例を示した点は大きかった。

――あれで、若手批評家は同人誌を出すのが当たり前みたいになりましたよね。2014年に群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞した矢野利裕氏も、秋葉原会場のあの頃から同人誌(「F」)に書いていて売り子をしていたこともあったし、後にプロになる批評家やライターが、初期の文学フリマから参加していたように思います。

望月:ここに「.review」がありますけど、今ではテレビやラジオで見聞きする機会もある社会学者の西田亮介さんや塚越健司さんがこういう本を作っていたとは、現在の読者、視聴者はイメージできないかもしれません。2009年に秋葉原から大田区産業プラザPiOに移った文学フリマの急速な拡大期だった2010年に「.review」は参加した。その頃は、参加サークルが大交流会を企画してくれて、僕ら事務局からすれば打ち上げのアウトソーシングみたいな感じで、こういう手もあるのかと、ありがたかったです。

 それで2011年の3月に東日本大震災があって、PiOでは最後になった6月の開催で、『早稲田文学』が作家のチャリティサイン会をやって大盛況だったんです。阿部和重さん、川上未映子さん、村田沙耶香さんなどすごいメンバーで、中村文則さんのサインが欲しかった又吉直樹さんが会場に来た。又吉さんが後に出したエッセイ集『東京百景』に「蒲田の文学フリマ」という項目があって、対談で会ってもそういう時にはサインなんかもらえないから、たまたま行った文学フリマでサイン会をやっていたという風にしようと思って行ったら、こんな場所にわざわざ来るのは不自然で設定に無理がありすぎたって話(笑)。サインをもらったら中村さんから「又吉君、目立ってるよ」、阿部さんから「僕より君の方が有名じゃない」といわれたという。その時に又吉さんに声をかけた編集者が小説を依頼し、『火花』となって芥川賞を受賞した。ゆえに、文学フリマなくして芥川賞作家・又吉なし(笑)。

 その回の夜の大交流会で行われたトークセッションに大塚英志さんが登壇し、僕を批判したんです。「震災についてどう考えるかなんて、もし君らが被災地とかかわりを持っていたなら悩む必要もない。自分たちのことになるんだから。だから、東京だけで文学フリマを肥大化させた望月に責任がある」といわれました。それに対する僕の答えが、文学フリマを開催したい地方の有志を支援し、地域間交流を生み出そうとする「文学フリマ百都市構想」(2014年発表)になるんです。ただ、それもずっと考えていたことではあって、大前提として東京でうまくいっていないものを地方でやろうなんて人はいないわけで、東京でできるところまでやろうと考えていたんです。

 初期には東京で年1回開催でしたが、2008年からは春秋の年2回化して、それでもブース数が増えて2011年秋から東京流通センターへ移った。会場の規模で700ブース程度までなって、しばらく続けられそうな感触もあった。よくいうと一定の規模まで達した、悪くいうと成長曲線が止まったんです。東京でまた会場を変わるかもしれないとか落選が出る状況では、東京以外でやるのは難しいと思っていました。でも、東京流通センターで横ばい感が出た頃、2013年に初めて大阪で開催すると評判がよかったんです。

 大阪の初回の年は、東京で春に開催しませんでした。東京では会場から予約できると提示された日が、法定検査日で空調は使えないけど貸せますといわれ、そんなことが2回続いた。だから、会場側と駆け引きしたほうがいいと思って、その回は見送り大阪で開催した。そうすれば、少なくとも出店する人は絶対集まるし、失敗しない方法です。気持ちの余裕がありました。

 ただ、同年に幕張メッセで開催されたニコニコ動画のイベント「ニコニコ超会議」に「超文学フリマ」を併催することになって余裕がなくなった(笑)。この話をいただいた時、もし5月に東京で通常開催していたら4月末のニコニコ超会議は日程が近すぎて無理だけど、逆にこの機会を逃したら二度とないと思った。だから無理矢理やって1回限りになることは初めからわかっていたんです。あの時は中学生など若い客層が多いイベントのなかでフィットしなかったとか反省点はありますけど、自分たちの存在を一応示せたのは後々を考えればよかったのではないか。ただ、出店者にすれば「売れなかった」という話なので申し訳ない気持ちです。ニコニコ超会議でやったことで、あのイベントの特殊性も文学フリマの特殊性も思い知りました。むしろ、こちらが普通ではないと感じました。

――「ニコニコ超会議」での併催も先の「ゼロアカ道場」も先方からの呼びかけですか。

望月:基本的に企業関連の案件は、先方からお話をいただくんです。

――以後は、福岡、金沢、岩手、札幌、京都、前橋、広島など、文学フリマの開催地はだんだん増えましたが、大阪で開場時に「傀儡舞」が奉納されるなど各地で独自要素もあるようですね。

望月:大阪の事務局の知りあいに伝統芸の継承者がいて、見せる場を作りたかったらしいんです。ただ、僕は文学フリマを新しい場所でやる時、いつもと同じ文学フリマがそこに来るからいいのであって、違うことをやってはダメだと思っています。

――併催イベントをやるべきだという考えは、望月さんとしては……。

望月:ないです。立ち上げ自体が大変なのに他のことまでやるとクオリティが下がる。イベントの特色を出すのは出店者と来場者だし、主催側が演出しようとしない方がいいです。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「出版キーパーソン」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる