「騙さなくてはいけないという使命感がある」 ミステリー作家・市川憂人が語る、異色のラブストーリー『灰かぶりの夕海』誕生の背景

ミステリー作家・市川憂人インタビュー

 観ていた世界が豹変する。市川憂人による『灰かぶりの夕海』(中央公論新社)は、そんな驚きを幾つも味わえるミステリーだ。読み進めていくに連れて作者の企みと主張が見えてくる本作はどのようにして紡がれたのか。デビュー作となった『ジェリーフィッシュは凍らない』から一貫して、奇想をベースに社会の諸相と人々の心情が滲むミステリーを書き続けてきた市川憂人に、創作の秘密を聞いた。(タニグチリウイチ)

【あらすじ】配達の仕事をしていた波多野千真が、道ばたに倒れていた女性を見つけて近づくと、女性の容姿が2年前にこの世を去った恋人の夕海とそっくりなことに気がついた。名前も同じ夕海という女性を千真はアパートに連れ帰り、自分の下で同じ宅配の仕事に就いてもらう。その仕事中に2人は密室での殺人事件に遭遇する。死んでいたのは千真の恩師の亡くなったはずの妻だった――。

大変な目に遭っている方の個人個人に物語がある

市川憂人氏

――『灰かぶりの夕海』は、物語の世界が置かれた状況や、死んだ恋人とそっくりな女性の登場、密室殺人のトリックなど大小のネタが次々に繰り出されて、驚かされっぱなしでした。

市川:ネタをたくさん入れたのは、大ネタだけだと薄味になると考えたからです。物語として平坦になってしまうということで、もう少し厚みを持たせて豊かにしたいと考えて、いろいろとエピソードを盛り込みました。ミステリー書きとして読者を驚かせなくてはいけないという意識が、やはり根本にあるんですね。騙さなくてはいけないという使命感。それに従って書きました。

――実際に騙されっぱなしでした。どう騙されたかを言うだけでネタバレになってしまいかねない作品ですが、基本線としては、社会構造が大きな出来事によって変化した世界で育まれる純愛ラブストーリーだと言えます。

市川:物語のラインとしては、千真と夕海の2人の話が中心になっていますね。そこから、昨今のような状況下で暮らす一人ひとりの側面を語っていくラインを乗せていって、物語を紡いでいきました。

――道ばたで拾った夕海の"正体"をめぐって、千真と夕海の関係が変化していった先で迎えた結末には感嘆させられました。

市川:夕海に関するあることに千真が気づいた時、千真の夕海に対する言葉が微妙に変わって来るんです。それが最後のシーンに繋がっていきます。注意して読んでみてください。実はその結末も当初は違ったものを用意していたのですが、もうひとひねりが欲しいと思って書き加えました。

――今のパンデミックにも通じる、大変な状況下で暮らす人たちの心情に迫る描写も読みどころです。

市川:パンデミックもそうですし、他の世界情勢を見ていても、亡くなられた方がたくさん出てきて大きく騒がれますが、時間が経つに連れてだんだんと数字に置き換わっていくような気がするんです。やがてその数字すら出てこなくなります。確かに大局的な意味ではただの数字なのかもしれません。けれども、それだけでは見えなくなってしまうものがあります。被害に遭われた方、大変な目に遭っている方の個人個人に物語がある。そこに焦点を当てたいと思いました。

――『灰かぶりの夕海』というタイトル自体にも、ある種の仕掛があって驚きました。

市川:最後まで読んで、タイトルの意味が分かるというところを狙っていたので、うまくハマってくれました。もしかしたらネタバレになるかもといった心配もありましたが、読まれた方の感想に「そういう意味だったのか!」といったものがあって嬉しかったです。

――タイトルの意味とも関わる設定はどこから思いつかれたのでしょう。

市川:ネタバレになってしまいますから詳しくは触れられませんが、私が小中学生だった時に住んでいた地域では、それについてよく教えられていたんです。子供の頃から刷り込まれていたことを書いてみようと思いました。もうひとつ、作中設定の一例として説明されるエピソードは自分が実際に経験したことで、人生ではただ一度だけのことでしたがなかなか強烈でした。

――どのことか気になります。『灰かぶりの夕海』はラブストーリーを基本線に社会情勢も描きつつ、ミステリーとしても成立させなくてはいけない作品でした。書き上げるのに苦労されましたか?

市川:プロットを含めると書き上げるまでに半年くらいかかりました。特に密室のところはどうしようかと苦しみました。ネタに関しては毎回毎回のたうち回っています。ネタ帳のようなものはあるにはあるんですが、この作品には使えないものばかりだったので、ストーリーが固まってから新しく考えました。それこそ乾いた雑巾を絞り出すようにしてネタを考えて入れていきました。

――トリックも含めて読みどころの多い作品ですが、読者にはどこをアピールしたいですか。

市川:そこはミステリー書きですので、まずはミステリーをよく読んでいる方に向けたものということになりますが、そうでない読者の方々にも、恋愛の部分に共感してくれれば良いなと思っていますし、あるいは社会であったりといった部分にも興味をもっていただければ嬉しいですね。

―――市川先生の作品ですが、2020年の『揺り籠のアディポクル』(講談社)はある意味でパンデミックそのものがテーマになっていますし、2022年2月の『断罪のネバーモア』(KADOKAWA)もパンデミックが起こって、それがいったん落ち着いた日本が舞台になっています。今回のコロナの流行は作家として避けて通れないものだとお考えですか。

市川:今、小説に限らず創作物には「2020年問題」というものがあると考えています。コロナでパンデミックが起こって生活も一変しました。その中で舞台設定をどうするのかということを、小説でも考えなくてはいけなくなりました。コロナそのものを題材にした作品も出てはいますが、そうではなくても、2020年代の諸相を正面切って描こうとすると、どうしてもコロナが日常になって来てしまいますね。

――コロナ前の2019年に発表した『神とさざなみの密室』(新潮社)でも、政権打倒と外国人排斥という対立する勢力の2人が殺人事件に遭遇する設定になっていて、社会問題に斬り込む姿勢がうかがえました。

市川:『神とさざなみの密室』は、テーマになっていることを今のうちに書いておかないとまずい、ここを逃したら機会が無いという思いで初稿を書き上げて出版社に渡しました。ボツを食らうかもと思いましたが、担当がふところの広い方で、刊行して戴けてありがたく思っています。

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