福嶋亮大「書物という名のウイルス」第1回
《妻》はどこにいるのか――村上春樹/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』評
村上春樹の小説には「男どうしの絆」が潜在していた
では、村上春樹の2013年の原作「ドライブ・マイ・カー」はどうか。それは一言で言えば、他の男と寝ていた妻を子宮癌でなくした男(家福)が、間男(高槻)を誘惑する物語である。もともと、「ドライブ・マイ・カー」は村上の短篇集『女のいない男たち』の巻頭の一篇だが、この複数形の「男たち」をいちばんよく表示している作品でもある。濱口版の家福はもっぱら「誘われる」男だが、村上版の家福は高槻を「誘う」男であり、そのことが男どうしのホモエロティックな関係を作り出している。
二人は握手をして別れた。高槻の手は柔らかく、指はほっそりとして長かった。手のひらは温かく、僅かに汗で湿っているようだった。緊張のせいかもしれない。
家福は何も言わず、相手の目を覗き込んだ。高槻も今度は目を逸らさなかった。二人は長いあいだ相手の目をまっすぐ見つめていた。そしてお互いの瞳の中に、遠く離れた恒星のような輝きを認めあった。(「ドライブ・マイ・カー」より)
男たちのクローズドな世界の代わりに、ワークショップと車の旅を前景化させた映画版には、この二つの場面はない。そもそも、相手の手のひらの汗を感じるという触覚の描写は、映画では再現しにくい。さらに、お互いの瞳を見つめあい、そこに「遠く離れた恒星」を認めるというちょっと漫画的なシーンも、映画では撮れない。裏返して言えば、村上は小説固有の性能をフルに活かして、家福と高槻の関係を濃密化したのである。
宇野常寛が濱口本人をまじえた鼎談(「「劇映画的な身体」をめぐって」『モノノメ』第二号所収)で指摘しているように、この二人の関係は、村上のデビュー作『風の歌を聴け』における「僕」と「鼠」という男性二人組を想起させる。村上の小説では男女の性愛がいつも中心にあり、その描き方はたいていフェミニストには評判が悪いものだが、実は初期から「男どうしの絆」がいわば「B面」として潜在していたことは、改めて強調されてよいだろう。僕と鼠、あるいは家福と高槻は、非対称的な他者どうしの関係というよりは、分身どうしの対称的な関係に近い。
村上の文学にはもともと「身代わり」へのオブセッションがある。彼の主人公はたいてい、空っぽになってしまった人生を、別の物語的存在の「代理」によって埋めあわせる。つまり、運命をいったん物語に譲渡し、アバターとしての人格を生き直した後に、もとの人生に回帰する。「でも、戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている」(「ドライブ・マイ・カー」)。現実的というよりも象徴的・物語的な次元で起こる交換が、人間の「立ち位置」に変化をもたらす――それが村上の文学の「ルール」なのだ。
『女のいない男たち』ではまさにその表題通り、女を失った男たちがときに人生の軌道から転落し、ときに物語的身代わりを媒介としてそこから回復しようとする。「ドライブ・マイ・カー」では、家福が高槻というアバター(=同じ女を愛した男)を使って、亡き妻へのアプローチと心の回復を試みる。しかし、そのうちに欲望の対象そのものがスライドして、妻よりも高槻のほうがエロティックとなる瞬間が訪れてしまうのだ。村上の常として、男どうしがホモセクシュアルな関係にまで到ることは決してない。それでも、どこか漫画的なホモエロティシズムへと誘われるほどに、主人公が潜在的に大きな不安を抱えているのは確かである。では、その不安はどこから来たのか。
妻の行方不明は日本文学全般の問題
『女のいない男たち』には妻と離婚することになった男の物語「木野」が収められている。私の考えでは、この短篇集の核になるのは「ドライブ・マイ・カー」と「木野」である。女がいないことと妻がいないことは、この短篇集ひいては村上の文学において、実は意味がまったく異なる。妻は女一般に還元できない。結論から言えば、妻を失うことは、異常さや暴力を引き寄せる事件なのである。
村上が妻を失った男に、最も鮮明な光を当てたのは1990年代半ばの『ねじまき鳥クロニクル』である。『ねじまき鳥クロニクル』では失業中の「僕」のもとから、妻のクミコが急に失踪する。僕は妻を追い続けるが、むしろ妻以外の女性が次から次へと現れ、その誘惑にさらされる。
少なからぬ論者は、ノモンハン事件をはじめ戦時下の暴力をテーマとする『ねじまき鳥クロニクル』に、村上の歴史回帰を読み取ってきた。確かに『ねじまき鳥クロニクル』には、巷で歴史修正主義が台頭するなか、村上が東アジアのダークサイドの歴史に本格的なアプローチを試みた、その証拠として読める一面がある。しかし、より重要なのは、物語が進むにつれて、そのような歴史性が次第に後退し、むしろ夫が女性たちの誘惑を振り切って、妻を追い求める神話的構造が際立ってくることである。しかも、最後まで「僕」は妻とふつうのやり方で出会うことができない。夫婦関係は結局、故障したままなのである。
吉本隆明の用語を使えば、『ねじまき鳥クロニクル』は一見すると共同体の歴史を再構築し、《共同幻想の修復》を企てた小説のように思える。しかし、村上はやがてその軌道から逸脱し、ついに《対幻想の故障》から来る摩訶不思議なイメージに小説をハイジャックさせてしまった。共同幻想が不安定なまま、対幻想まで異常化してゆく――それが『ねじまき鳥クロニクル』を前例の少ない奇妙な作品とした。そして、この奇妙な小説の中心にいるのが《妻》なのである。
そもそも、男女の「対幻想」(カップルの幻想)と一口に言っても、さまざまな形態が考えられる。日本の男性作家が好んできたのは、娼婦、母、妹である。永井荷風(あるいは村上春樹)は「娼婦」を求め、谷崎潤一郎(あるいは村上龍)は「母」を求め、宮沢賢治は「妹」を求めた。これらのカップリングは比較的安定している。ただ「妻」とのカップリングはどこかぎくしゃくしている。夏目漱石の『道草』や森鴎外の『半日』(いずれも自伝的な小説)に到っては、妻を厄介なトラブルメーカーとして描いた。してみると、妻が行方不明になるというのは『ねじまき鳥クロニクル』に限らず、実は日本文学全般の問題である。
しかも、夫婦関係のおさまりの悪さは、日本文学のみならず日本語そのものについても当てはまる。いまどき「家内」と呼ぶ男性は少ないだろうが、「奥さん」あるいは女性側からの「旦那さん」という言い方はやはり変である。かといって「妻」や「夫」と呼ぶとよそよそしい。つまり、日本語にはいまだに夫婦関係をスマートに言い表せる言葉がない。
村上の『ねじまき鳥クロニクル』や『女のいない男たち』は、このような夫婦にまつわる文化的コードの故障を、ある意味で正直に書いている。村上にとって、女は一般的概念であり、そこには何でも代入できる。しかし《妻》だけは違う。《妻》に「身代わり」を立てることはできない。
現に「ドライブ・マイ・カー」の家福は、分身のような男(高槻)と記号化された女(ドライバーのみさき)とは濃密に話ができるが、妻とは出会い損ねる。高槻とのホモエロティックな関係も唐突に打ち切った家福にできるのは、自分に「致命的な盲点のようなもの」があったのではないかと感じつつ、みさきの運転する車中でつかの間の眠りにつくことだけである。この短篇小説の良さは、家福の心の空白をむりに埋めずに、それをみさきの思慮深い沈黙に対応づけたことにある。「家福はその沈黙に感謝した」という秀逸な締めくくりの一言は、《妻》の象徴的等価物は存在しないことを暗示している。
このような妻の捉えがたさは「木野」において、より不気味なテーマとして描き直されている。妻と別れた「木野」の主人公は、自分にとって居心地のよいバーを根津美術館の裏手で経営するが、やがて危機を予告されて熊本のホテルに閉じこもる。しかし、その真夜中の部屋に、恐ろしいノックの音が響く。
ドアを叩いているのが誰なのか、木野にはわかる。彼がベッドを出てドアを内側から開けることを、そのノックは求めている。強く、執拗に。その誰かには外からドアを開けるだけの力はない。ドアは内側から木野自身の手によって開けられなくてはならない。/木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。(「ドライブ・マイ・カー」より)
ここでドアをノックしているのは《妻》ないし妻に連なる何かである。木野は妻を求め、かつ妻を恐怖している。平成的な暴力や恐怖は、ここでは不可視の《妻》のノックに濃縮されたのである。
このようなコンプレックスは、映画『ドライブ・マイ・カー』においては素通りされている。映画内の女性たちは(韓国手話も含めて)さまざまな言葉を発するが、妻だけは自分の言葉で多くを話さない。しかも、不気味な無言のノックで家福を脅かすわけでもない。つまり、濱口版の《妻》は、村上版の《妻》に輪をかけた行方不明者なのである。演出家の家福が旅やワークショップを重ねて自己の過失を自覚し、女性ドライバーのみさきが家福の愛車サーブを韓国で乗り継いでも、肝心の《妻》はただ遠ざかるだけである。
要するに、《妻》を別の何かに置き換えることはできず、その喪失を素通りすることもできない。村上春樹はそのことを分かっていたから「木野」を書いた。逆に、聡明な濱口竜介は恐らくそのことを知りつつ、最終的に《妻》を封印し、韓国に渡ったみさきによって物語を完結させたのである。