『古見さん』は“かつての高校生”こそ胸に響く 水橋文美江が描く心の機微
『古見さんは、コミュ症です。』(NHK総合)に癒されてばかりの月曜日の夜である。増田貴久や城田優ら30代の俳優たちをはじめ、あえて実際のキャラ設定よりも上の年齢の俳優たちによって演じられる学園青春ドラマは、作品そのものの新しさから登場人物たちと同世代の高校生たちに多く観られるべき作品であると共に、「かつて高校生だった人たち」こそ、より楽しめる作品になっている。
第4話において片居(溝端淳平)が言った「普通に皆がやってるようなこと、やりたいっていつも思ってた」という言葉を一度でも心に浮かべたことがある人は、どこか、かつての自分が救われたような気がするのではないだろうか。
なぜなら、このドラマに登場する人々は、誰もが教室の片隅で1人孤独に戦っているような人々だ。心の声は饒舌なのに、いざ外に出そうとすると全く違う声が出たり、自分に自信が持てなくて過剰に自分を作ったり、人を許せない自分のことが一番許せなかったり。自己認識と世界との間のズレに対する違和感と必死に戦っている間に、周囲とは溶け込めないまま、一人自分の机に張り付いたままで高校生活が終わってしまう悲劇はざらにある。そんな「人と関わりを持ちたくないわけではない、むしろ誰かと話したくて仕方がないけれど、人とのコミュニケーションが苦手な人」たちが幸運にも歩み寄り、「ありのままの自分」を受け入れられ、ずっと憧れていた「友だちと一緒に過ごす」日々を満喫することのできる奇跡を、視聴者は目の当たりにしているのである。
これまでも多くの作り手が数々の意欲作を仕掛けてきた、非常に興味深い枠、NHKよるドラ枠。本作を手掛けているのは『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)の瑠東東一郎(総合演出)、そして『スカーレット』(NHK総合)、『#リモラブ ~普通の恋は邪道~』(日本テレビ系)の水橋文美江(脚本)である。アニメ版も現在放送されている、『週刊少年サンデー』(小学館)にて連載中のオダトモヒトによる同名原作コミックの良さを尊重しつつ、水橋脚本らしい深く愛のある人間描写で、不器用で「普通」が難しい人々の心の機微を描いている。
『#リモラブ』においても、個性的な登場人物たちが、新しい生活様式の中で試行錯誤しながら、それぞれに不器用で、ちょっと暴走気味な恋愛をする中で、「『普通の恋は邪道』とは言うけれど一体「普通」とは何だろう」という気持ちになったものだ。本作における只野仁人(増田貴久)も、至って「普通の高校生」であるという設定だが、彼の卓越したバランス感覚と、相手の思いを推し量ることのできる能力は明らかに突出しており、同時に彼の周りのコミュ症(コミュニケーションが苦手な状態を指した原作オリジナルの略称)の人々と共通する高校生活への不安を抱えていたりして、「普通」の只野と「普通じゃないと思っている」彼らのボーダーラインは極めて曖昧である。そういう水橋脚本が描く「普通」と「普通になりたいけどなれないと思っている人々」の姿を見ていると、どこか安心する。そもそも「普通」である必要なんてどこにもなかったのだと感じずにはいられないからだ。