【連載】豊﨑由美 × 佐々木敦『海外文学(ガイブン)レスキュー隊!』#02〈前編〉 ダメ人間小説としての『サタンタンゴ』

書評家・豊﨑由美(通称トヨザキ社長)と批評家・佐々木敦が、海外文学(通称=ガイブン)をテーマにしたトークイベント『海外文学(ガイブン)レスキュー隊!』。7月18日に開催された第2回の前編では、2026年5月に発表された英ガーディアン紙「史上最高の小説100選」について触れつつ、2025年度ノーベル文学賞を受賞したクラスナホルカイ・ラースローのデビュー作にして代表作『サタンタンゴ』(国書刊行会)を紹介した。
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英ガーディアン紙「史上最高の小説100選」にはがっかり!?

佐々木:豊崎由美さんと私の「ガイブンレスキュー隊」第2回でございます。よろしくお願いします。
豊崎:よろしくお願いします。今日はまず、5月にイギリスの有名な新聞「ガーディアン」が「史上最高の小説100選」を発表して、日本の読書界でも少し話題になったことについて触れさせてください。上位はほとんど古典だったんですよね。下位になるとコーマック・マッカーシー、ハン・ガン、J・M・クッツェー、ゼイディー・スミスなんかも入っているんですけど。でも、ナボコフの『ロリータ』が25位で、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が17位という結果には「えっ!?」と思いません? どちらも当然10位以内に入ってくると思っていました。
佐々木:ベスト10はどうなっているんですか?
豊崎:10位がフローベール『ボヴァリー夫人』、9位がジェイン・オースティン『高慢と偏見』、8位がシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』、7位がトルストイ『戦争と平和』、6位もトルストイで『アンナ・カレーニナ』、5位がプルースト『失われた時を求めて』、4位がヴァージニア・ウルフ『灯台へ』、3位がジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』。2位がトニ・モリスン『ビラヴド』。
佐々木:『ビラヴド』が2位ってすごいですね。

豊崎:そうなんです。で、1位がジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』。大昔にエリオットの『サイラス・マーナー』は読んだんですけど、『ミドルマーチ』は未読だったので、これを機会に読んでみようかなと思ったんですけど、長いんですよね。光文社古典新訳文庫で全4巻もある。それで断念しました(笑)。
佐々木:僕は途中まで読んで挫折しました。
豊崎:『新潮 世界文学辞典』によりますと、〈地方都市ミドルマーチを主な舞台とし、性格の違う三人の女性の恋と結婚を絡み合わせて人生の形を描き、ことに作者の内面を投入した内省的な人物、ドロシア・ブルックの憧憬、幻滅、希望の復活が主筋となっている。スケールが大きく、エリオットの最大傑作と言われている〉とのことですけど、このガーディアンのランキング、納得いかないって思いませんか。たしかに上位10作は名作なんでしょうよ。でも、その後も素晴らしい小説がどんどん生まれているのに、相変わらずこのラインナップって、おかしくないですか?
170人くらいの小説家や批評家、学者にアンケートを取った結果らしいんですけど、これだけ大きなテーマならせめて1000人ですよね。しかもイギリス人だけじゃなくて、アメリカ人とか日本人とかいろいろな国の人からアンケートを集めてやらないとだめだと思います。
佐々木:こういうランキングは映画でもよくあるけど、確かに話題にはなりますよね。でも、豊崎さんが言ったくらいの規模でやらないと、「史上最高の小説100選」とは言えないかも。
豊崎:ちょっとがっかりしたな、という話でした。
三人称の語りが持つ野蛮さと獰猛さ──

豊崎:ラースローはハンガリーの小説家ですね。
佐々木:タル・ベーラも同じくハンガリーです。『サタンタンゴ』はラースローが1985年に発表した最初の長編小説で、彼はもともと編集者だったそうですが、本作で小説家として名を成しました。そして40年後の2025年にはノーベル文学賞を受賞します。
タル・ベーラが監督した映画は1994年の公開で、7時間18分の大長編です。日本では映画祭などで期間限定で上映される機会はありましたが、2024年になって初めてロードショー公開されて好評を得ました。小田香さんというタル・ベーラの若手育成プログラムで学んだ映画監督が国際映画祭で受賞していることもあって、タル・ベーラは日本のシネフィルの間では神様のような存在なんです。『サタンタンゴ』の日本語訳が出たのはノーベル文学賞効果だと思いますが、その前に映画の成功がありました。
豊崎:いや、ノーベル賞効果というのは違うと思いますよ。受賞前から日本語訳を出す話は進んでいたはずです。でなければ、今年6月の刊行に間に合わないから。国書刊行会の編集者はやっぱり目利き揃い!
佐々木:先見の明があると。『サタンタンゴ』のあらすじですが、舞台はハンガリーの田舎の、社会主義時代から続いている集団農場のある村です。ずっと雨が降っていて地面が泥沼のようになり収穫ができず、村は崩壊寸前になっている。そこに1年半くらい前に死んだと噂されていたイリミアーシュとペトリナという二人の男が帰ってきます。
イルミアーシュは、自分には農場を再生するためのすごい計画があるみたいなことを言って、村人からお金を集めようとする。頭が切れる男の帰還で、村はどのような運命をたどっていくのか? 村人たちそれぞれの視点でエピソードを描き、それらが絡み合って話が進んでいきます。
構成も特徴的で、第一部、第二部ともに六章ずつあって、第一部は普通に第一章から第六章へ進みますが、第二部は第六章から第一章へ逆行していく。そして最後まで読むと、ある種の円環構造になっていることがわかります。
僕は映画を先に観てたんですが、モノクロ映像で7時間以上あるのに百数十カットしかない。ものすごい長回しのカットばかりなんです。セリフも非常に少なくて、一度観ただけではどんな話なのか全然わかりませんでした。だから、原作の小説も手強いんだろうなと思っていたんですけど、読んでみると驚くほど面白くて、ユーモアもたくさん入っている。なにより『サタンタンゴ』ってこういう物語だったんだと、そこでわかりました。豊崎さんはいかがでしたか?
豊崎:単行本の帯には〈偽救世主の来訪と世界の崩壊を予言する現代の黙示録〉とあるんですけど、そういう導線を引いちゃうと、この小説の面白さが限定されちゃうんじゃないかなと思いました。他に生きる場所がある人や目先が利く人はとっくに村を出ていって、残されたのは村から動くのが面倒だから、不安に目をつぶっているような人たちばかり。つまり、この作品には登場人物のほとんどが愚かだという「ダメ人間小説」の側面があるんです。まずはそこから気楽に楽しめばいいんですよ。
構造としては章ごとに、登場人物の誰かに焦点が当てられていくことになります。たとえば第一部第一章は村人のフタキ、第二章はイルミアーシュというふうに。ルックスが良くて口八丁手八丁のイルミアーシュは、実は当局に雇われた情報提供者なんですよね。
佐々木:それが第一部第二章で早々にわかります。続く第三章は村にいる「医者」の話。彼も重要人物ですよね。家からほとんど出ずに酒ばかり飲んで、医師の仕事をしない代わりに村人たちを観察してノートに記している。だけど、彼の書いた記録には、現実なのか妄想なのか分からない部分があります。
豊崎:医者は私のお気に入りのキャラクターです。愚かな村人たちとは没交渉の高慢ちきなどうしようもない男で、窓辺の席に座って村人を観察している。その姿が、部屋の間取りが手に取るようにわかるほど丁寧に描写されています。そして、第四章は村の居酒屋に集う人たちの話。お金も払わないで飲むだけ飲むから、店主がかわいそうなんです。居酒屋の店主は村では数少ない常識的な人で、目先も利くのでイルミアーシュにも騙されないんですよね。
佐々木:医者も居酒屋の人たちも飲んでいるのはパーリンカというハンガリーのお酒で、調べてみたら神楽坂に飲ませてくれるお店がありました。
豊崎:いかにも甘そうですけど(笑)。
佐々木:そう、すごく甘くてアルコール度数が高いらしいです。危ないタイプのお酒ですね。みんなそれをぐいぐい飲む。そして、第五章では知的障害のある少女エスティケが出てきます。周囲から馬鹿にされ虐げられているので、不満を募らせた彼女はまず、猫を殺してしまう。そこからエスティケの物語が展開していきます。
豊崎:第六章は再び居酒屋に集う人たちの話で、イルミアーシュが村に帰ってくるらしいという噂が村に伝わり、救世主がやって来るとみんなで盛り上がる。そして第二部に入って最初の第六章「イルミアーシュが演説する」で、実際に村に帰ってきたイルミアーシュが甘やかな言葉で演説をし、村人から金を騙し取るという彼の計略が始まります。前に言った通り、イルミアーシュは当局に雇われた人間で、最終的には全財産を失った村人たちを当局の情報提供者として各地へ送り出そうとしているんです。
佐々木さんが言った通り、第二部は第六章から第一章に戻って、最後に物語の円環が閉じるという構成になっているんですけど、別に第一部で描かれた時間を遡っていくわけではないんですよね。だったら、第一章から第十二章まで普通に並べてもいいんじゃない? と私は思っちゃいました(笑)。
東欧の小説家って、いい意味でも悪い意味でもちょっとでたらめなところがあって、ポストモダン小説のように最初に決めた設計というか企みにカチッと収まらないおおらかさがあります。つまり(小説の)構造の奴隷にはならないんです。
佐々木:イルミアーシュは村人全員に対して辛辣です。演説では「皆さんのためなんです」と丁寧なことを言いながら、第二部第五章で出てくる、当局宛ての報告書では容赦ないことを書いている。その落差がすごい。
豊崎:たとえばシュミット夫人は村一番の美人で、物語冒頭に出てきたフタキが浮気相手なんですけど、村の男たちには見境なく声をかけていている。そしてイルミアーシュが来たら、彼に夢中になっていきます。そんな夫人をイルミアーシュは〈馬鹿で巨乳の牝〉〈安物の香水と腐敗臭が入り混じった身の毛もよだつ悪臭〉と報告書に書く。本当にひどい。なのに、居酒屋のバックヤードみたいなところでちゃっかりシュミット夫人を抱いているという人でなし。
佐々木:登場人物それぞれの内面描写が少しずつ入ってくるので、それを組み合わせながら読むと、「この人は何も分かっていないな」とか、「この人は意外と分かっているな」とかが見えてくる。そこも面白いところですよね。
豊崎:この小説は比喩がいちいち大げさなんですよ。もう笑っちゃう。作者は比喩に血道を上げるタイプの書き手なんだなと思いました。村上春樹とは違う意味でね。たとえば、車掌が居酒屋の客たちにイルミアーシュ帰還の知らせをもたらすシークエンス。店主の視線から、その知らせがどれほどの衝撃を自分たちにもたらしたのかを描写している箇所なんですけど、〈足首まであるぼろのコートをまとった見知らぬ男たちが、突如、静かに夕食を囲んでいる家族の台所に踏みこんできて、混乱と恐怖を引き起こし、疲れきった声で戦争が勃発したことを告げ、大騒ぎになるなか、食器棚にもたれて自家製パーリンカをあおるとさっと去っていき、それきり永遠に姿を消す、それくらい尋常ならざる事態だと思う〉ですって。どんだけー!
佐々木:ちょっと中原昌也っぽい感じもありますよね。表現がやたらと長いし、その比喩で合ってるの? と頭をひねるようなところがたくさんある。意識的に笑わせようとしている感じもあります。
それから語り方についてですが、この小説はフタキがシュミット夫人の家に来ていて、夫が帰ってきたので隠れる場面から始まりますが、少し後に、同じ出来事が別の人物の視点によって語り直されます。こういうふうに視点を変えて同じ場面を繰り返すという語り方が、何度も使われている。この語り方はタル・ベーラの映画でも踏襲されています。くらもちふさこの『駅から五分』とか、そこからインスパイアされたとおぼしきマームとジプシーの演劇にも通じるところがある。作者がそういう表現をやりたくなる気持ちは分かるんです。多面性というか、一つの出来事をいろんな角度から見せたい。ここまで自由自在に登場人物の気持ちを書いて、すぐ別の人物へとスライドしていくというのは、かなり特殊な技法だと思うんですけど、面白いからそのまま読めてしまう。
最近、日本文学では一人称小説がものすごく増えていますよね。一人称というのは、もともと非常に不自由な形式です。だからこそ、一人称でありながら、一人称では絶対に語れないものを語る試み(移人称)が議論を読んだ。でも今、むしろ見直されるべきは三人称が持つ野蛮さ、獰猛さなんじゃないかと僕は思うんです。そういう意味でも『サタンタンゴ』は非常に刺激的な作品でした。

豊崎:私も10年くらい前までは視点にかなり厳しくて、「なぜこの人物の視点でそれが書けるの? なぜこの人はそれを知ることができたの?」と気にしていた時期がありました。でも、そこを突きつめすぎると小説が窮屈になるんです。小説ってそもそも芸術の中では若いジャンルで、登場した当初は何でもありの自由さがあったと思うんですよ。『トリストラム・シャンディ』なんてでたらめじゃないですか。17、18世紀の小説家のほうが、よほどのびのび書いている。小説技法が体系化され、大学で教えられ、評論家が細かく論じるようになるにつれて、小説自体は不自由になっていったんじゃないですかね。
佐々木:そうですね。
豊崎:保坂和志さんがあれだけ人気なのは、不自由さの壁を突き抜けたからだと思うんです。それと似たような視点の揺り返しが来ているのかなと。佐々木さんがおっしゃった通り、小説が「三人称の野蛮さ」とか「そんなに勝手に書いていいの?」という力を取り戻そうとしている動きがあるような気がします。
佐々木:最後に、クラスナホルカイ・ラースローはもう一冊、以前に翻訳されていた作品があるんですよね。晶文社から出ていた『北は山、南は湖、西は道、東は川』という長編で、訳者は『サタンタンゴ』と同じ早稲田みかさんでした。それが、今年の9月にハヤカワepi文庫で他の訳者による新訳として出ることになりました。これ、京都が舞台のジャポニズム小説なんです。ラースローはかなり日本が好きみたいです。
(後編に続く)

























