織田裕二、反町隆史、亀梨和也ら出演『北方謙三 水滸伝』の面白さとは? 原典との大きな違い

『北方謙三 水滸伝』見どころは?

 織田裕二、反町隆史、亀梨和也らが出演する連続ドラマ『北方謙三 水滸伝』が、2月15日よりWOWOWで放送・配信される。『水滸伝』といえば、明の時代に書かれた中国の古典である。北宋末期に社会からはじき出された108人の豪傑が梁山泊という要塞に集結し、汚職を行う役人などを相手に大暴れする大作だ。今回の映像化は、タイトル通り、北方謙三版の『水滸伝』(1999-2005年連載。集英社文庫、全19巻)が原作である。それは、ふるくからある物語を北方が独自に解釈して再構成し、今の時代に読んでも面白いエンタテインメント小説へと生まれ変わらせたものだ。

 日本では原典の『水滸伝』が江戸時代に伝わり、翻訳、要約が何種類も出版された。同作を『忠臣蔵』など日本のべつの話と混ぜあわせた二次創作も多く書かれた。なかでも『水滸伝』好きだったのが、曲亭(滝沢)馬琴だ。葛飾北斎の挿絵で和訳『新編水滸画伝』を刊行したほか、女性が数名しかおらず男性ばかりだった原典の豪傑を女性だらけに置き換えた『傾城水滸伝』も書いた。また馬琴は、運命によって108人が集まる『水滸伝』から着想を得て、8人の犬士が揃う『南総里見八犬伝』で人気を得ている。

 近現代にも『水滸伝』は多くの訳、ダイジェスト版が出ており、吉川英治『新・水滸伝』、柴田錬三郎『柴錬水滸伝 われら梁山泊の好漢』(両作とも未完)など、人気時代作家がアレンジした例もある。横山光輝やさいとうたかをなどは、マンガ版の『水滸伝』を描いていた。1970年代には日本テレビで連続ドラマ『水滸伝』も、放送されていたのだ。

 江戸時代からの伝統なのか、その後に書かれた二次創作も多い。侠客たちの争いを講談や浪曲にした『天保水滸伝』など、内容は原典と関係ないものの、男たちの争いを題材とする話を「水滸伝」と名づけたり、英雄が集結する場所を「梁山泊」と称したり、『水滸伝』は比喩としても使われてきた。

 日本のそうした『水滸伝』受容の、平成以降における最良の成果が、北方版『水滸伝』だろう。ただ、それは、もとの『水滸伝』とは大きな違いがある。原典では、役人の汚職や不正が蔓延する世のなかに居場所をなくした好漢たちが、梁山泊に集う。正義を通そうとして官僚から罠にはめられる者がいる一方、追いつめられて罪を犯すなど、事情は様々である。だが、108人のなかにはただ盗む、軽はずみに人を殺すなど、ただの無法者としか思えない連中も混じっている。建前ではなく本能で動く。その野放図な暴れっぷりが痛快なのだが、人肉饅頭を食わせ、幼い子供を斧で殺すなど、現代人には受け入れがたい部分を含む。彼らは不正がはびこる社会に反抗し、「替天行道」(天に替わって道を行う)の旗を掲げているが、山賊であることは否定できない。しかし、物語後半では一転して国に帰順し、異民族や反乱軍を討伐する役目を負って忠義をつくすが、次々に命を落としていく。

 『水滸伝』の作者は施耐庵とも羅漢中ともいわれるが、伝わってきた様々な説話、講談をまとめたものとされる。決闘や策略の連続で面白い場面があちこちにあるものの、つぎはぎのため整合性、一貫性に欠けるのは否めない。無軌道で魅力的なキャラクターが多いものの、108の数あわせで出てくるような存在感のない人物もいる。そもそも梁山泊の首領である宋江(そうこう)が、大人物にみえないという批判も昔からあった。

 いろいろ傷もあるこの厄介な古典を、北方は大胆かつ精密に作り変えている。原典を知る人は違いに驚くし、知らない人は原典よりも北方版に説得力を感じるのではないか。

 原典では、世間にいられなくなった豪傑が次々に梁山泊にやってくる。それはなりゆきとも行き当たりばったりとも思える展開である。ただ、この物語では、伏魔殿(これも比喩としてよく使われる言葉だ)を開けた結果、封印されていた108の魔星が飛び散ったという発端が書かれており、星が豪傑になった設定なのだ。108人が揃った際には彼らの名が刻まれた石碑が見つかる。豪傑の集結は、天による運命の導きだったのだ。このほかにも、妖術を使う公孫勝(こうそんしょう)、呪符を貼って足を速くする戴宗(たいそう)など、ファンタジー的要素を含んでいる。

 それに対し北方謙三は、『水滸伝』を整合性のあるリアリズムへと全編を再構成した。魔星の発端はなく、108人の名を記した石碑も出てこない。天の定めで梁山泊に人が集まるわけではないのだ。北方版の「替天行道」はただのスローガンではない。宋江は腐敗した政府を打ち倒そうと檄文を書き、思いを共有する同志を増やしていく。彼には、原典よりも大人物の風格がある。山賊大暴れの原典に革命思想の萌芽を読みとる解釈は以前から存在したが、全共闘世代でかつて学生運動に参加した北方は、『水滸伝』を芯から革命運動の物語へと根本的に作り変えた。梁山泊は、当時は国の専売だった塩の闇ルートを作って資金源にし、軍事拠点を増やす。決闘、戦争の場面が興奮させるだけでなく、国家を倒すための攻略法が語られるあたりが興味を引く。

 リアリズムの内容になれば、当然、登場人物のあり方も変わる。公孫勝は特殊部隊の隊長、戴宗は飛脚と現実的な立場になった。原典との違いでいえば、序盤だけですぐいなくなる王進(おうしん)が教育係として登場し続け、本来は後半に登場して幹部になるはずの盧俊義(ろしゅんぎ)が最初の巻から活動しているなど、人物の出入りが練り直されているのだ。虎退治、人肉食といった有名なエピソードがいくつかとり入れられているが、原典とは異なる文脈で出てくるので印象は全然違う。また、108人が勢揃いしてから相次いで欠けていくのが原典だが、北方版では揃う前から死人が出る。彼らがとり組んでいることの過酷さを、容赦なく描く。ここに緊張感がある。

 私が注目したのは、宋江の下で同志集めに動き回るのが、僧形の魯智深(ろちしん)であることだ。原典の彼は泥酔して怪力で暴れるような破戒僧だが、北方版では冷静なオルガナイザーである。作者が意識したかはわからないが、この点は前述の『八犬伝』で各地を旅して犬士を探し集めるゝ大(ちゅだい)法師と役回りが近い。『水滸伝』と『八犬伝』は人が結集する物語である点が共通だが、体制に反抗する『水滸伝』と主君に忠義をつくす『八犬伝』は、対照的ととらえられてきた。それに対し、造形され直した魯智深とゝ大法師が相似したのは、北方版の性格をあらわしている。

 『水滸伝』と『八犬伝』の比較論は昔からあり、「水滸伝は無邪気で、八犬伝は理屈ぽい」と評したのが、俳人・歌人の正岡子規だった(「水滸伝と八犬伝」一九〇〇年)。彼は、基本的に『水滸伝』派だった。だが、同作は人間や事件が多いものの、性格の似た人物や似た事件が出てきて、存外変化に乏しいと批判してもいた。一方、『八犬伝』には親や主の仇を討つ話が複数あるが、それぞれは似ておらず、小説として変化があるという。また、『水滸伝』は一度引っこんだ人間は再び出てこないが、『八犬伝』は間をおいて再登場するなど小説が複雑になっており、技量として進んでいると評した。

 北方版『水滸伝』を読んだ時、子規が指摘した原典の欠点を、子規が『八犬伝』について評価したような構成力を用いて改良したのだなと思った。リアルに革命運動を描くという方向づけによって、無邪気であるよりは理知的な作風になっている。だが、反抗の熱き心情と肉体は、原典から受け継いでいる。これまで数多く発表されてきた『水滸伝』もののなかでも、出色の作品といえるだろう。しかもこの大長編は、梁山泊の次の時代を描いた『楊令伝』、『岳飛伝』という長編群へさらに続くのだ。破格の物語である。

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