日本の司法史上、前代未聞の再審無罪を勝ち取った「吉田巌窟王事件」を小説化 友井羊『巌窟の王』が凄い

『巌窟の王』

 友井羊といえば、早朝のわずかな時間にひっそりと営業している、スープ屋しずくのシェフ・麻野が、常連たちの持ち込む謎などを鮮やかに解決する、「スープ屋しずくの謎解き朝ごはん」シリーズが有名である。このシリーズは、日常の謎が中心だが、優しさだけでなく、現実の厳しさも感じさせるところがあった。そこに作者の資質がある。

 実際、デビュー作の『僕はお父さんを訴えます』から、作者は〝法と正義〟というテーマに、強い感心を寄せている。そんな作者が冤罪を題材とするのは当然というべきか。2023年の冤罪ミステリー『無実の君が裁かれる理由』を経て、ついに現実の冤罪事件をモデルにした渾身作『巌窟の王』を上梓したのだ。物語のベースになっているのは、「吉田巌窟王事件」「日本の巌窟王事件」「昭和の巌窟王事件」等の名称で呼ばれる、実在の事件である。登場人物の名前などは変えられているが、事実に沿いながら、日本の司法史上、前代未聞である再審無罪を勝ち取った主人公と、その周囲の人々の人生が活写されている。

 そもそも発端は、1913年8月13日の夜に名古屋で起きた強盗殺人事件である。腕のいい硝子職人の岩田松之助は、いきなり警察に逮捕される。先に硝子職人の沼澤一郎と入江潔が逮捕されているが、その沼澤から事件の主犯だといわれたためである。岩田と沼澤は前の職場で一緒だったが、たいした関係はない。それなのになぜ岩田を主犯といったのか。事件当日、ある事情であやふやなアリバイしかない岩田は、警察の激しい拷問にあいながら、屈することなく無罪を主張。しかし裁判は第一審で死刑判決となり、その後、無期懲役で結審した。

 本書が凄いのは、ここからだ。刑務所に入ってからも無罪を訴え続ける岩田は、抵抗を止めることがない。真面目な性格だが、事件に関することになると激高し、何度も懲罰を受ける。やがて再審請求のことを知った彼は、猛勉強をして文字を覚え、再審請求をするものの却下されるのだった。なお、当時の日本には、まだ無筆の人が多かった。

 そして逮捕から21年後の1935年、岩田の仮出所が決まる。出所してからも彼は、己の無罪をあちこちで訴え続ける。都新聞の白井良平と出会い、自らのことが記事になり、弁護士も紹介してもらう。一方、私生活では結婚をする。しかし再審の道は険しい。さらに日本が戦争に突入すると、それどころではなくなる。

 戦争中に栃木に引っ越し、そのまま暮らしている岩田だが、やはり再審の道を諦めない。真面目な生き方が周囲から認められ、再びマスコミに注目される。しかし、戦火により証拠が失われてしまった。大きな痛手だ。ここからは硬直化した司法制度だけではなく、時間の壁も岩田の前に立ち塞がる。それでも彼は、一度は疎遠になったものの、また協力者になってくれた白井を始め、彼の無罪を信じる人々の力を得て、ついに再審の道を切り拓く。

 ちょっと長くなってしまったので、粗筋はこれくらいにしておこう。再審が決定してからの展開も、予断を許さない。無罪を勝ち取ることが分かっているのに、二転三転する事態に、ページを繰る手が止まらないのだ。本書の帯の推薦文で門井慶喜が、「こんな話でハラハラしていいのか。罪悪感を抱きつつ読むのをやめられなかった」と書いているが、まったく同意見である。あえてこの言葉を使うが、作者の手腕が発揮された終盤は、本当に面白い。その面白さの中に、どうしてもこの冤罪事件のことを知ってもらいたいという、作者の想いを感じるのである。

 また、嘘つきな沼田が、ほとんど関係ない岩田を主犯だといった理由に、ひとつの答えが与えられている。おそらく作者の想像であろうが、いかにもありそうだ。本書は広義のミステリーとしても、抜群の読みごたえを与えてくれるのである。

 作中で書かれているように〝人は必ず過ちを犯す〟。だから人の作った制度も完全ではない。戦前という時代を考えても、警察の捜査は杜撰である。司法は面子にこだわり、岩田の人生を棄損した。ここまでメチャクチャなことはないと信じたいが、さまざまな要因により、今もこれからも冤罪事件が起きることは間違いない。ならば、どうすればいいのか。冤罪事件を防ぐシステムと、冤罪事件が起きたとき速やかに是正するシステムを構築し、時代に合わせてバージョンアップするしかないのではないか。本書を読み終って、そんなことを考えた。

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