なぜ中年は“Tシャツのタックイン”に抵抗があるのか? 研究者・高畑鍬名が語る、Tシャツの日本史


今から20年前、2ちゃんねるから生まれた『電車男』の主人公は、Tシャツをズボンに入れたことで笑われた。ところが2025年の街中で目にするのはその逆の風景だ。Tシャツのタックインはオタク的イメージから解き放たれ、いつの間にかオシャレな着こなしとして一般化。むしろタックアウトのほうが「だらしない」と揶揄される場面さえある。
果たしてどこで価値観が逆転してしまったのかーー。8月21日に刊行された高畑鍬名氏による『Tシャツの日本史』(中央公論新社)は、ファッション史の中では主役になりにくかったTシャツに着目した一冊。各時代の映像作品・漫画作品でのTシャツ登場シーンを引用し、若者たちの間での「裾」の扱いの変遷を振り返っている。
本書の序文で著者は、日本においてTシャツと若者の関係は独特であり、「裾が、とんでもない同調圧力を発生させる」と語る。若者たちは周りの友達と同じようにTシャツの裾を捌くことで「ダサい」「みっともない」と言われないように生きており、それが「裾をズボンに入れるべきか、出すべきか」の問題として呪いのように若者を苦しめてきたという。
90年代初頭の渋カジから始まった“裾出し”の時代から、『電車男』期の“入れたらダサい”風潮、そして2020年代の“入れるほうがふつう”へ、華麗に反転を続けてきたTシャツの裾ブーム。その変遷について、著者の高畑氏に詳しく話を聞いた。
若者の間で“新しい地獄”が始まっている

ーー本を読んで、自分の着こなしを見直したのですが、ズボンにTシャツの裾を入れるのは中年にはなかなかハードルが高いですよね。お腹がぽっこりベルトに乗ってしまいますし……。今日も迷った結果、ポロシャツの裾出しで来てしまいました。
高畑鍬名氏(以下、高畑):大丈夫です。私も、Tシャツをインする度胸はありません。90年代から00年代にかけて青春時代を過ごした人にとっては、Tシャツのタックインというのは「ダサいファッション」という印象が強いですから、どうしても抵抗がありますよね。あと、Tシャツのタックインを中年がかっこよく見せるには身体を鍛えていないと様にならない。しかし鍛えすぎると昔の軍隊映画の登場人物のようになってしまう。ある意味で、中年のタックインは失敗が約束されているわけです。そのため、生まれもってスタイルに恵まれた中年、もしくは最適な努力のできる中年、若者以外には非常に難しい着こなしなんだと思います。
ーーなるほど、少し安心しました。Tシャツだけをテーマにし、その上で「裾」ひとつに着目するという非常に珍しい本になっています。この着眼点はどこから生まれたものなのでしょうか?
高畑:きっかけは大学生のときに、映画の現場に衣装助手として参加したことです。それから映画や漫画といったフィクションの衣装をスタイリストの目線で読み込むようになりました。あるとき、90年代には主人公が唐突に裾を出し始める作品がたくさんあることに気がついてしまったんです。2014年に「東京の若者たちはいつTシャツの裾を出したのか」というテーマで修士論文を書きました。ところが、その頃から若者たちがタックインをするようになってしまったので、その混乱を2021年に個展として発表したんです。個展に来てくれた知り合いの女性が、Tシャツをジーンズの中に入れている中学生の娘に向かって、「それってダサいんじゃないの?」って指摘したそうなんです。そしたら「ママは全然分かってない、今はTシャツを出してるとバカにされるんだよ」と言われたと……。そんな話を聞いて、これは大変なことが始まっているぞと驚きました。研究を続けようと決意した瞬間ですね。あのときダサかったはずのものが今はオシャレになっている、若者の間でTシャツの裾出し入れ問題という“新しい地獄”が始まっていることに気づかされたんです。
ーーたしかに気がついたら裾を入れている若者を多く見かけるようになってきました。ファッション世代の当事者がそこに「同調圧力」を感じているという指摘は、思春期を振り返ると納得するところがあります。
高畑:下北沢あたりに行くと、現在も若者同士はお互いの服装をめちゃくちゃチェックしているんですよ。おじさんになるといつの間にか他人のことはどうでもよくなってしまうんですが、今だって若者はフェンシングでもするかのように、お互いの目線で刺しあっています。すれ違いざまに一瞬で他人の服をスキャンしている。そのようなシビアな暮らしを送っていて、それが「裾」に細かくあらわれているんです。
なぜ『寄生獣』新一のファッションはダサいのか?
ーー本の中では80年代末から90年代初頭にブームとなった「渋カジ」が裾出し文化を作ったと書かれています。ただあまりにもライブ感が強くスピードが早いのが渋カジで、そのためフィクションの世界ではその後も「裾を入れたり出したり」大きな揺れがあったようですね。
高畑:本の中では、マーケティング雑誌『月刊アクロス』(PARCO出版)による路上の定点観測を基準にしています。1991年の夏に「シャツの裾出し」が特集されているので、タックアウトが一般化したタイミングはこの時期だと考えられます。ただ、漫画作品ではその後もしばらくはタックアウトするキャラクターとタックインをしているキャラクターが混在するんです。それが微妙な時代感を作っているんです。

ーー本書の中でも『寄生獣』の主人公・泉新一が、尾崎豊的なファッションだと書かれていますね。
高畑:もともと修士論文で裾出しをテーマにしたのにも理由があって、ゼミで漫画『寄生獣』の新一のファッションが「めちゃくちゃダサい」と発表したことが非常に受けたからなんです。新一は、最終回までジーンズにTシャツの裾を思い切りインしている。作中では尾崎豊さんのCDジャケットと同じ構図のカットがあるぐらいなので、作者の岩明均さんが意識的に描いているものだと思うのですが、同作が最終回を迎えたのは1995年。世間ではとっくにタックアウトが当たり前の時代になっていて、同時期には少女漫画では矢沢あいさんの『ご近所物語』、青年誌では望月峯太郎さんの『座敷女』あたりが連載されていた頃で、おしゃれでリアルなTシャツの着こなしをしている。漫画家というのはキャラクターのスタイリストもやらなきゃいけない仕事なので、このように漫画の中のTシャツ描写に作者の無意識があらわれてしまう。おしゃれという意味では、『寄生獣』だけがやや取り残されているように見えたんです。
ーー藤本タツキさんの『ルックバック』に井上雄彦さんの『SLAM DUNK』に冨樫義博さんの『幽☆遊☆白書』など、いろいろな漫画作品について、Tシャツの裾がどう描かれているのか本書では解明されています。個人的に気になったのが、グルメ漫画『美味しんぼ』の主人公・山岡士郎があるときを境に裾を外に出すようになったという記述でした。
高畑:山岡士郎は連載開始時は27歳なんですが、世間でTシャツのタックアウトが当たり前の時代に入っても、ずっとインし続けていたんです。それが、2002年の81巻、44歳になってようやくタックアウトしたんですよ。『月刊アクロス』が「シャツの裾出し問題」を提示してから実に11年経っての裾出しです。本の中では「流行の彼岸」と表現していますが、90年代に広がった裾出しの同調圧力が、ファッションにそこまで興味がない中年層にも届いたことを表しています。
作者がどこまで意図しているのかは定かではありませんが、ここから分かるのは、山岡が同調圧力に流されにくい人物だということと、逆に、時間がかかるとはいえ着実に時代とファッションを合わすことができるということ。これはなかなか凄い。私たちが冒頭お話していた、なかなかタックインができないという悩みを、山岡は乗り超えているんです。そういう意味では、タックインが再び一般化したと『アクロス』が観測した2020年から11年後、2031年の山岡は、Tシャツの裾をズボンに入れるようになっているのかもしれない。本を書きながら、どんどん山岡をリスペクトするようになりました。
我々はキムタクの周りを一周していたにすぎない
ーー本の表紙は石原裕次郎に尾崎豊など、それぞれの時代の代表的なTシャツ姿の人物がイラストとなっています。中央に描かれているのは菅田将暉さんだと思いますが、タックイン姿が今のファッション観をあらわしていますね。
高畑:あくまでもそれぞれの有名人のモノマネ芸人というか、彼らに憧れているフォロワーとして、ものすごく微妙な塩梅の若者たちをイラストレーターのホセ・フランキーさんに描いてもらいました。菅田将暉という人は、街の景色を変えたものすごい人物だと思います。2017年放送の『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)では、シャツをインする若者たちを「菅田将暉系スタイル」として紹介しています。それ以前にファッション誌や映画雑誌を見ると、2012年頃に菅田さんはすでにTシャツをタックインしていたことが分かる。これはかなり早いです。でも、そんな菅田将暉さんよりもっと早い無名の若者たちがいた、というのも本の後半のポイントになってきます。
ーーもう1名、重要人物として書かれていたのは、木村拓哉さんですよね。本書を読んで驚きだったのが、このようにタックイン・タックアウトで若者たちが悩んでいた中、キムタクだけは30年の間、Tシャツをずっとインしていたという解説でした。
高畑:そうなんですよ! どの写真を見てもTシャツをベルトに甘噛みさせていて、彼はインでもありアウトでもあった。我々は木村拓哉の周りを一周していたにすぎないんです。木村さんの場合は、インとアウトを同時に楽しむというか、その境界線で30年間ずっと遊んでいるという印象。たとえば96年の『MEN’S NON-NO』で、木村さんご自身がスタイリングを担当しているセルフポートレート企画があったんですが、ピッタピタのTシャツを入れてる写真があるんです。タックアウトが全盛の時代にですよ。ものすごい確信のあり方です。菅田さんもそうですが、時代を作る人というのは、シルエットに対しての特別な感覚があるんだと思います。
“男性のヘソ出し”が未来の定番ファッションに?

ーー今回の本を読んだ人は、自分の裾や世間の人たちの裾を絶対に見てしまうと思います。今日もここに来る前に街の様子を確認してきたのですが、よそ行きの若者やデート中の男性が、ほぼ絶対とも言える確率でTシャツの裾をズボンに入れていて驚きました。
高畑:そこも非常に面白いところで、2021年に個展をやった際に、資料としてストリートスナップを撮って展示をしたんですが、タックインしている人を無意識に撮っていたつもりが、並べてみると70%以上がカップルの写真だったんです。しかもみんな手を繋いでいるんですよ……。自分としては反射的にタックインの若者を撮っただけなので現場では気づかなかったんですが、写真の仕上がりを見たらすごく“幸せそうな人”ばかりが写っていた。
ーー現代のタックインは幸せのファッションだったんですね。
高畑:そう、“幸せそうな人たち”がタックインをしていることに気づいたんです。その状況は2025年になった今も続いていると思います。
ーー本編では非常に細かい部分までTシャツについての意識の変化の歴史を分析されていますが、前書き部分は「ファッションへの怒り」を感じさせるものでした。「なぜTシャツは君を傷つけるのか」といった一文もズシンときます。今回の本はどういった人に向けて書かれたものなのでしょうか?
高畑:Tシャツの裾も含めてですが、ファッションで困ったことがある人に向けて書きました。ご自身だけでなく、息子さんや娘さんのファッションとどう向き合ったら良いか迷っている人にも読んで欲しい。
書き始めた当初は、ファッション雑誌というものへの怒りがあったんですが、書いているうちにだんだんと同情やリスペクトに変わっていったんです。調べれば調べるほど、雑誌の編集者が世間の流行の移り変わりに動揺していることが分かってきて、おそらく随分困っていたんだろうなと。本の後半に行けば行くほどファッション雑誌への怒りはなくなって、同調圧力が生まれてしまう仕組みのほうに怒りがシフトしていったように思います。
ーーご自身でも一冊書き上げたことによって、救われた部分があったのでは?
高畑:そうですね。最終章で「変声期と成長痛」「流行はいつも過去形」といった文章を書けたことで、同調圧力に苦しんだ昔の自分を鼓舞するセルフセラピー的なところがありました。思春期ってただでさえしんどいのにファッションのこと考えるのって辛いよね、ということをしっかり書けた本になったのではと思っています。流行の波や同調圧力の波に流されそうになったときに、ちょっとした“重し”になるような本になっていればいいですね。
ーー未来にはタックインとタックアウトはどうなっていると思いますか?
高畑:ファッションの批評家ではないので、未来の予測にはあまり興味がないんです。目撃して興奮できればそれで十分というか。ただ、裏表紙に描いているサングラス姿の男性は、2024年のロエベやプラダのコレクションに憧れている若者のイラストなんですが、彼はタックイン・タックアウトどころか、ヘソが出るTシャツを着ています。何年か先にはこの“男性のヘソ出しスタイル”がひょっとしたら当たり前になっているかもしれません……。
特に日本の夏は耐えられないぐらい暑くなってきています。男性が日傘を差すのも見慣れた光景になっていますから、片手で日傘を差して、Tシャツはヘソ出し、というのも冗談ではない未来の定番ファッションかもしれません。
■書誌情報
『Tシャツの日本史』
著者:高畑鍬名
価格:2,200円
発売日:2025年8月21日
出版社:中央公論新社
























