『サブスタンス』と「血みどろ臓物ハイスクール」の共通点とは? エクストリームな表現で露わにする、世界の歪み

ボディ・ホラーとしての『サブスタンス』

『サブスタンス』と「血みどろ臓物ハイスクール」の共通点

 本記事、実は「映画原作の書評×映画評」をコンセプトに掲げたものである(『哀れなるものたち』評からひと続きのシリーズものだったりする)。ここで原作を持たない『サブスタンス』に対して、反則気味ながら一冊の本を引き合いに出して語ってみたい。キャシー・アッカー著「血みどろ臓物ハイスクール」だ。

 著者のキャシー・アッカーは自他ともに「女バロウズ」と認められたフェミニズム作家。文学から現代哲学まで広範な知識を有し、それをミキサーにかけてセックス・バイオレンス表現と絡めデタラメに出力したような作品を放ち続けて「文学テロリスト」の二つ名を得た。歴史的名作を口悪く語りなおすパロディ技法や、バロウズが発明したカットアップも積極的に採用したアッカーの作品は自由なユーモアに満ちている。しかし常に通されていた筋は、男性主義的社会における女性の精神的・肉体的抑圧に対する強い批判精神だ。アッカーはニューヨークの裕福な家庭でお嬢様として育てられたが、強制される「女らしさ」について幼い頃より疑問を抱いていたという。家を出てからはパンクの洗礼を受け、髪の毛を短髪に刈り込み、筋トレにより逞しい肉体を得て、世間的な「女らしさ」の価値観への反発を体現する存在となった。文無し状態でニューヨークを彷徨うアッカーはストリッパーとしての職を得る。そこでの経験が後に生み出す作品での共通したテーマである、男根主義への批判、セックスにおける女性の主体化へとつながってゆく。

 アッカーがその名を轟かせた強烈なデビュー作が「血みどろ臓物ハイスクール」である。一見してスプラッター小説と思しきタイトルだが、決してそんなことはない。性器の名を作中で連呼し、暴力的なまでにセックスを描く挑発的な姿勢を示したタイトルなのだ。主人公は10代の少女ジェイニー。父親とのセックスに耽っていたが呆気なく捨てられ、ひとりニューヨークを彷徨する。彼女はギャングの一員に加わり、人身売買の末に売春婦となり、ガンを発病してしまう。売春婦として用済みになったジェイニーはジャン・ジュネと出会い、資本主義に毒された世界を巡る旅へ出る……。とんでもない話だが、この過程は脚本形式、絵物語、詩、ナサニエル・ホーソーンによる古典小説「緋文字」の下品な語り直し、舞台劇調といった多岐にわたる形式で脈絡なく紡がれる。既存の形式の破壊を志した、実にパンクな一作なのだ。

 この小説はアンダーグラウンドを火種として圧倒的な支持を得た。一方で、女性の自立が全編の下敷きになっているにも関わらず、フェミニズム批評界において「性的イメージの度が過ぎ、結果として女性が犠牲者の役割となっている」という批判も噴出した。これに対してアッカーは「自分が既存の文章をカットアップした結果、テキストのそういった面が露出した」と述べている。すなわち世界は誰もが無自覚なうちに男性中心的であり、アッカーがそのベールを剥いて浮き彫りにしたというわけだ。既存の文章形式の破壊者という点ではアッカーとバロウズは共通しているが、まなざす場所は全く異なるところにある。

 ここで「血みどろ臓物ハイスクール」と『サブスタンス』を付き合わせると、両者が驚くほどの共通点を有していることが分かる。大きな構造を見ると『サブスタンス』におけるカット割りと言うには性急すぎる、異なる撮り方による短いシーンの目まぐるしい連続は、「血みどろ~」の千変万化する文体の変化と同一視できる。『サブスタンス』の映像リズムは、映画というよりアニメやショート動画を連続再生するそれに近い。アッカーが企んだ「一貫した文体の破壊」と言うべき作家の暴走がそこにある。

 また、既存のテキストを流用する手法も同様だ。先に述べた通り、アッカーは誰もが知る小説の文章を自作にそのまま持ち込み、自らの文脈にハメこむ。『サブスタンス』もスタンリー・キューブリック作品からヒッチコック、さらには『溶解人間』(1977年)といったマニアックなホラー映画の数々のアプロプリエーションを映画の中に臆面なく放り込んでいる。引用元の文脈を温存した無邪気な遊びの側面も感じられるが、同時に映画の持つ「オリジナリティ」に揺さぶりをかけることで、主人公エリザベスの人格が何によって形成され、そして彼女の選択が真に自身の深奥から湧き出した欲望によってなされたものなのか? と問題を提起する役割も持つ。ここが大事な箇所である。流用によってアッカーは男性主義社会の歪みを表出させようとした。『サブスタンス』でゆらぎを見せるオリジナリティ=主人公の欲望は、アッカーの手口と同様に、それが男性社会の価値観によって作られたものではないか、と提示しているのだ。ここに本作の起点をバロウズに見つつも、アッカーでなければ切り込めないコアがある。

「血みどろ~」では哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが自著「アンチ・オイディプス」内で提唱した「欲望する機械」の概念が突如引用される。これは、欲望とは個人の内部にあるものではなく、社会や文化、身体など様々な要素が組み合わさり形成されることを指す考え方だ。「血みどろ~」の主人公ジェイニーはセックスの欲求を行動原理としている。しかしそれは男性という接続体があってはじめて成立する行為であり、では根本的に彼女が何を求めているのかというと、それは愛なのだ。シンプルすぎる欲望がオーガズム、セックス、売春、資本主義、男根主義によって屈折を余儀なくされる世界が「血みどろ~」でジェイニーが放り出された場所なのである。

『サブスタンス』において恐怖を引き起こすのは謎の薬剤「サブスタンス」であるのだが、エリザベスがそれに手を伸ばしてしまった理由は、己がショウビズの世界で「不要」と見られたことにある。若さ、美しさ、エロさ、それだけが重視されるのサ! 女のコはいつでもニッコリお人形さんみたいに笑顔でネ! そんな世界で居場所を失ったことにエリザベスは焦りを覚える。若くて、美しくて、エロければ、自分は再びスポットライトを浴びることができる! 彼女はそう考えた。つまるところ、彼女は有害な男性の目線によって築かれた価値観の檻に囚われてしまっており、若返って何にでもなれたにも関わらず、男性主義により形成された搾取システムの中へ嬉々として戻ってしまうのである。その姿を徹底的に愚かしく、そしてグロテスクに描くことで、ファルジャはシステムを痛烈に批判する。その点において『サブスタンス』と「血みどろ~」は相似形を結ぶのだ。

肉体の崩壊を通して外的世界の歪さを暴き出す

 両作品の主人公たちは男性が築いた価値観の中で翻弄される。一方で彼女たちが真に対峙すべき男たちの姿はどちらでも詳細に書き込まれていない。ジェイニーをモノ扱いする娼婦売買人、エリザベスを軽視するTV局のプロデューサー(デニス・クエイド)らは人格を与えられていないかのように記号的である。戯画化された存在と言って良い。ここから見て取れるものは、物語の一人称化だ。もし両作品が三人称の語りであったのなら、男性側の苦悩や意識の煩悶も描かれうる。しかしあえてそこを削ぎ落し、女性の目線からに統一することで、世界の構図、すなわち物語のテーマの明確化を図った。

『サブスタンス』においてそれは徹底されており、繰り返しとなるが、男性の価値観によって作られた世界と対峙すべきところ、結果として流血沙汰の死闘を繰り広げるのはエリザベスとスーなのだ。ここだけを取り出すと「女の敵は女」なる極端な言説へとつながってしまいそうだが、彼女たちの諍いがなぜ生まれたのか、その世界の歪みへと目を向けると物語の本質的な問いかけは明らかとなる。『RAW 少女のめざめ』より語られがちなフェミニズム・ホラーの文脈は「女性の主体化」と共にあった。対して『サブスタンス』は一人称の物語でありながら、主人公の「主体的」な行動が外側の価値観により意思決定されていると示唆する点において、従来の文脈より一歩先んじた批判的描き込みがなされていることは併せて理解すべきだろう。テーマの明確化を目した一人称化は、うがった見方をすると単純化とも言えてしまう。『サブスタンス』においても、そこは否定できない。だが、そこまで単純化して分かりやすくグロテスクな世界の構造を提示しないことには、観客は分からないかもしれない。思い詰めに近いファルジャの意志がここからは伝わってくる。

 ここでファルジャの言葉「女性として生きることそのものがボディ・ホラーである」に立ち返ろう。『サブスタンス』には肉体の変容を徹底的に描く、生理的嫌悪感を惹起する表現が頻出する。それは極めてショッキングなものだ。そして『サブスタンス』の根底をなすファルジャのフェミニズム思想において必要な表現でもある。同じく「血みどろ~」におけるあけすけな性表現でアッカーは批判を受けたが、その性表現がなければ描けないアッカーの思想があった。考えを強く伝えるには、エクストリームな表現が適していることもある。受け手に意識の改革を求めることは、観客(あるいは読者)の中で硬直した古い価値観の破壊を要する。そのためには明日になったら忘れてしまっているような、おヌルい表現であってはならない。激しくブン殴り、一生忘れないショックを植え付けるべきなのだ。『サブスタンス』に関して言えば、それは極端な表現を伴うジャンル映画にしか成しえないことである。

 バロウズの落とし子たちと言えるグァダニーノにクローネンバーグ、そしてファルジャとアッカー。前者が自分の世界に耽溺した作家たちであると見るならば、後者は世界の破壊と怒りに燃えるアグレッシブな印象を受ける。『クィア/QUEER』と『サブスタンス』の関係も同様だ。両作品には肉体と精神の変容が共通するキーワードとして裏打ちされている。しかし『クィア/QUEER』は内的世界へと潜航し魂の救済を求めるウェットな物語であったのに対し、『サブスタンス』は肉体の崩壊を通して外的世界の歪さを暴き出す自棄的な破壊性に満ちている。『サブスタンス』を体現するにふさわしい文章が「血みどろ臓物ハイスクール」にあった。結びとしてそれらを引用したい。

「私はひとり。狂気と正気に区別なんかありゃしない。何が起こってるかなんてだれにもわかるもんか」

「燃えたぎる炎が自分で自分を燃え上がらせる 血と臓物と恐怖 私が見る光景」

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「書評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる