村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』と時代設定を変えた意図は? NHKドラマ『地震のあとで』が抱えるいささか深刻な問題

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』は新刊が出てすぐに読んだはずだが、いくつかの印象的なシーン、男が野球グラウンドで踊り狂う場面とか、かえるくんのことくらいしか覚えていなかった。新作が発表されると文芸業界あげてのお祭り騒ぎになる、それにともない仕事が生じることも多く、村上春樹に関しては折に触れ諸作品を読み返してきたが、『神の~』についてはなぜだか機会がなかった。それはあるいはこの短編集が、村上作品としてはやや特異な位置にあったということなのかもしれない。
NHKでドラマ化されることも本稿の依頼を受けるまで知らなかった。観る前に原作を読み返そうかとも考えたが、すっかり忘れている現状のままで観るほうが視聴者として一般的ではないかと思い直した。
ドラマのタイトルは『地震のあとで』。ふーん、原作初出時の副題を持ってきたんだ。
第1話「UFOが釧路に降りる」を見ての感想は「こんな妙ちきりんなお話あったっけ?」だった。なんかものすごくアレンジされてるんじゃない?
全話観終えてから復習ったところ、意外にも、ほぼ原作のままであった。第2話、第3話も、プロットは原作をなぞったものになっていた。もちろん、細部に変更や省略、独自の演出の追加などがありはするけれど、本筋においては、原作に忠実な映像化が目指されているように感じた。
ただし一点だけ、原作から大きく変えられていることがあった。それは時代設定である。
「続・かえるくん、東京を救う」の「続」とは
原作が発表されたのは1998年から99年にかけてのことで、2000年に単行本化された。6編から成る連作短編で、全編、1995年2月が舞台に選ばれている。これは阪神淡路大震災(1月)と地下鉄サリン事件(3月)に挟まれた月であり、村上春樹は、連続して起こったこの二つの大惨事に、偶然の連鎖ではなく、必然的な繋がりを見たのだ。初出時の副題である「地震のあとで」には、したがって、来る3月の惨事への、予兆や予感、警告などが含まれているといえよう。
「そのふたつのあいだには大きな違いがある。しかしその両者は決して無縁なものではない。(中略)それらの出来事は、言うなれば地下から、我々の足下深くから、やってきたものだ。(中略)そのような執拗なまでの「地下性」は、僕にはただの偶然の一致とは思えなかった」(『村上春樹全作品 1990~2000③ 短篇集Ⅱ』解題)
ドラマ『地震のあとで』は全4話からなっており、時代設定は次のように置き直されている。
・第1話「UFOが釧路に降りる」1995年1月
・第2話「アイロンのある風景」2011年1月〜3月
・第3話「神の子どもたちはみな踊る」2020年3月
・第4話「続・かえるくん、東京を救う」2025年4月
つまり、阪神淡路大震災→東日本大震災→新型コロナウイルス感染症→(起こりえるかもしれない)東京直下型大地震という具合に、「地震のあとで」に含意されていた危機が拡張されているわけだ。
それでようやく第4話のタイトルに「続」とついている意味がわかる。「続」を最初見落としていて、劇中、かえるくんが片桐に応援を頼むのに「30年前の大地震を二人で防いだじゃないですか」と繰り返すのがよくわからなかったのだが、原作で東京を地震から救ったかえるくんが、30年後に再び東京を守るべく姿を現したという設定の続編なのだ。原作未読の視聴者にとっては、第4話がいちばん謎な回だったのではないか。いや、まあ、かえるくん自体が謎なんだけど(笑)。この第4話は、ドラマ制作陣による完全なオリジナル脚本である。
ドラマが更新する原作の普遍性
原作は連作短編集という形式を採っていた。登場人物も場所も違う6つの物語を繋げているのは、「地下性」と「暴力性」である。かえるくんが闘うみみずくんは、その二つを端的に背負わされたキャラクターである。
みみずくんは地底に住んでいる巨大なみみずで、腹を立てると地震を起こす。
「彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます」(『神の子どもたちはみな踊る』)
「地下の異界に棲む邪悪なものが現実世界へ侵入してくる」というのは村上作品において初期から反復されてきたモチーフであり(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のやみくろや、『1Q84』のリトルピープルなど)、地底からやって来た怒りである阪神淡路大震災や、地下鉄で散布された憎悪であるサリン事件に村上が強く反応したことは必然であっただろう。
コロナ禍についても村上は「何もないところから突然出てきたものではない。一連のできごとの中にある」とフランスの新聞で語っていた(参考:村上春樹氏「コロナ禍、一連の出来事の中に」 仏紙に)。ドラマ版が第3話「神の子どもたちはみな踊る」をコロナ禍下に置き換えたことは、したがって、原作者の思想を照らした更新と見なすこともできる。
第2話「アイロンのある風景」が東日本大震災の直前に据え直されたことにも同じことが言える。この更新によって、物語はさらに不穏さを増してもいる。
神戸を逃げるように後にして「茨城県の海岸の小さな町」に住み着き、海岸で流木を拾い焚き火をする中年男の三宅と、やはり家(父)から逃げ出してその町に流れ着いた20歳そこそこの順子が、焚き火を挟んで疑似親子的関係を築く。三宅と順子は互いに空虚さを抱えている。ラスト、三宅が「どや、今から俺と一緒に死ぬか?」と言うと、順子は「いいよ。死んでも」と答える。「せっかくおこした焚き火や」「ぜんぶ消えるまで待て」と言う三宅に、眠くなった順子が「焚き火が消えたら起こしてくれる?」と聞き、三宅はこう答える。
「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」
この結末の場面はドラマ版でもそっくり再現されている。原作でもドラマでも二人のその後は描かれないが、ドラマ版においては二人の死がより強く暗示されている。ドラマにおけるラストの日時は2011年3月11日未明、その日の午後に、茨城県の沿岸部には高さ7メートルの津波が押し寄せるのである。























