映画『ウィキッド』原作には下ネタや暴力もーー運命の皮肉を描いた悲喜劇の大作を読む

映画『オズの魔法使い』に関しては、プログレッシブ・ロックの傑作とされるピンク・フロイド『狂気』を続けて2回同時再生すると、場面転換と曲の始まりが一緒になったり、セリフと歌詞が呼応するなど、音と映像がシンクロするという都市伝説がある。『狂気』は、生命、時間、金、敵対関係、狂気など人間社会を形作る要素をテーマとしたコンセプト・アルバムだ。バンドのメンバーはこの都市伝説をただの偶然だと一蹴したが、『オズの魔法使い』の魅力的なファンタジーには、そこになにか隠された真実があるのではないかと想像させるところがある。そうした想像の1つが、マグワイア『ウィキッド』だったといえるだろう。
『オズの魔法使い』では、脳みそのないカカシ、心をなくしたブリキ男、臆病で勇気がないライオンが、ドロシーの旅の仲間になる。いずれもなにかをなくした存在であり、故郷から飛ばされたドロシーも自分がもといた場所をなくしている。彼らは、それぞれの欠落を回復することで救われる。
それに対し、『ウィキッド』では、緑色のエルファバ、体の不自由なネッサローズなど、なにかをなくしたか、余計に持っているような、アンバランスな状態の人物が多く登場する。その点で、恵まれた環境に育った人気者グリンダは、おバカなところはあるにしてもアンバランスとまではいえないキャラクターだろう。だからこそ、エルファバと友情が生まれたことは、ある種の回復に向けて意味があると思える。だが、ミュージカル(および映画)が、エルファバとグリンダのシスターフッドの強さを褒めたたえる内容であるのに対し、原作小説の後半では再会した2人の意識は一緒にならない。このなりゆきも、ミュージカル版以上に現実的といえるかもしれない。
エルファバ、グリンダ、ネッサローズなどオズの国の住人たちは、この国の状況のなかで育ち、考え、もがいている。だが、外の世界から竜巻で運ばれてきたドロシーは、自らが意図しないのに、オズの国に影響をおよぼしてしまう。『オズの魔法使い』の冒頭では、彼女がなかにいる状態のままカンザスから飛ばされてきた家が落下し、この国に到着した時、ある魔女を押しつぶしてしまったことが語られていた。そうしようと思ったわけではないのに、重大な結果をもたらしたのだ。魔女の死の理不尽さは、人災というより天災だろう。
そんなドロシーが現れるまでと現れた結果をたどる小説『ウィキッド』は、悪と善の決めがたさを表していると同時に、善悪に関係なく理由なく降ってくる災いもあるという、運命の皮肉を描いた悲喜劇の大作となっている。誰かの意思でどうにかできるわけではない出来事が起きてしまう。空想の世界なのにここには、この世の真実の感覚がある。はじめはミュージカル版とのテイストの違いに戸惑うかもしれないが、一読の価値はある小説だ。


























