シャアとシャリアの関係性、小説版『機動戦士ガンダム』と『GQuuuuuuX』ではどう違う?

■小説版のシャア、シャリアへの想い
そんな小説版シャアは、シャリアに対して素直に好感を抱いている。初めて編隊を組んで敵と戦った際にも、ビームを回避するシャリアの機体を見て「ひょっとしたら実戦をくぐりぬけてきたシャア以上に優れている」と評価。シャリアを自分の部下としたことに関して「それが、ギレン総帥の差し金であるのならば、素直にギレン総帥に感謝をしよう」と思うほど惚れ込んでいる。もちろんシャリアがギレンの密命を帯びていることはシャアも勘付いているが、しかし早い段階で「シャアの野望が良きものであるならば、それこそ後見人的な立場に立って支援してくれよう」という確信も得ている。ザビ家を追放しニュータイプの力でもって宇宙に新たな王道を歩むというシャアの野望に、シャリアを引き込むことを早くから考えているのだ。
このシャアの惚れ込みぶりに対して、シャリアも全力で応えている。小説版にはシャアが「諸君らの前ではガードはやめた」と言って、シャリアの前でヘルメットとマスクを外して素顔を見せるシーンがあるが、そこでシャリアは「意外と険のないその素顔」に感嘆している。ニュータイプであるシャリアは、人の思惟を直接受け取ることができる。シャアからは暗い雌雄と、未来を見通したいという欲望のふたつをキャッチしており、その相反する心情に対してシャリアは「輝くような感動」を受けている。そして通常そういった思惟を持つ人間の人相は鋭く賢しいものだが、シャアの顔にはそういった賢しさがない。その点に対して、シャリアは感嘆したのである。
確かに、前述のように小説版のシャアには嫌な賢しさがない。ガルマもハメないし部下にも理不尽に当たらないし、敵であっても必要であれば手を取り、自らが善だと信じる目標に向かってまっすぐに進む強さがある。そんな男と共に戦ったからこそ、終盤でシャリアは命に代えてもアムロとの精神的接触を果たすと決意した。そしてそれを「君にも類縁が一人くらいいるんだろうから、迂闊なことを言うな」とシャアに咎められた時、「両親も知りません。女もいない。子もね……しかし、男は時に男に惚れるものです」とまで返している。つまり、小説版においてシャリアがシャアにがっちりと惚れ込んだのは、小説版のシャアがアニメ版とは全然別物の、有能で素直で情熱的で、人に対して自分から歩み寄れる人物だったからなのである。
この差は大きい。なにより「男が男に惚れる」という状況に対して、小説版には強い説得力がある。翻って『GQuuuuuuX』のシャアは小説版ほど素直な好漢だったかというと、ちょっとそうでもないように思う。最終決戦の土壇場で連邦とザビ家の共倒れを画策し、味方を顧みず策を弄する姿は、自分の目には小説版よりもテレビ版のシャアの姿に近いように映った。もちろん『GQuuuuuuX』は「アニメのガンダム」の語り直しでもあり、アニメ版シャアに近い性格のシャアが登場するのは筋が通っている。しかし同じ部隊で戦うパイロット同士の交流の清々しさや、こんな人物同士の共闘ならこういう結果になるだろうという説得力に関して言えば、小説版のシャアとシャリアの関係のほうが上だと思う。
ということで、(本編開始前の現時点では)『GQuuuuuuX』でのシャアとシャリアの関係よりも理屈が通っており、同部隊で戦うもの同士の感応の結果として説得力があるのは、小説版のシャアとシャリアだと思った次第である。もちろん『GQuuuuuuX』本編が始まったらまた異なる結果が待っているのかもしれないが、シャアとシャリアの関係を語る上では、小説版も欠かすことができないはず。シャリア・ブルというキャラクターやシャアとの関係性が気になった方は、ぜひとも小説版にも目を通していただきたい。






















