小説版『機動戦士ガンダム』が『GQuuuuuuX』に与えた影響とは? 富野由悠季が描いた「原初のガンダム」の姿

小説版『機動戦士ガンダム』の影響とは?

 入場者特典や特別映像の上映など、公開から一ヶ月近く経過しても話題になり続けているガンダムシリーズ最新作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』。この話題作の参照元と思しき作品が、富野由悠季が執筆した小説版『機動戦士ガンダム』である。この小説は、『GQuuuuuuX Beginning』の前半だけではなく、本編にも影響を与えているはずだ。

 小説版『機動戦士ガンダム』は、1979年から1981年にかけて朝日ソノラマから出版された。のちに加筆修正を加えた角川スニーカー文庫版(全3巻)が出版され、こちらのほうは現在でも比較的容易に入手することができる。著者は『機動戦士ガンダム』の監督を務めた富野由悠季(刊行当時は「富野喜幸」名義)である。

 この小説版は、アニメとは全く異なる内容が書かれていることで有名だ。ストーリーも結末もほぼ完全に別物となっており、主人公アムロ・レイが最初から軍人であることや、ララァが比較的早く退場してしまうこと、アニメ本編には登場しなかったキャラクターであるクスコ・アルが重要人物として登場することや、終盤でアムロが戦死してしまうことなど、相違点を挙げればきりがない。タイトルや登場人物の名前はアニメと同じだが、それらの要素を引用して富野由悠季が一から作品世界を構築したSF小説と言ったほうがいい。

 この小説版ガンダムは、実のところ小説としてそれほど出来のいいものではない。アニメ版では「命からがらサイド7から逃げ出した難民船状態のホワイトベースが、敵の追撃を振り切りつつ地上にガンダムを届ける前半戦」「覚醒しつつあるアムロとホワイトベースのクルーたちが、再度宇宙でのジオンとの戦いに挑む後半戦」という形でストーリー全体にメリハリが付けられているが、小説版は全編宇宙での戦闘のみ。1巻の前半、ルナツーで民間人(フラウ・ボゥを含む)を降ろしたあとはペガサス(アニメ版のホワイトベースにあたるモビルスーツ母艦)のクルーは正規部隊として連邦軍に組み込まれ、主に小規模な陽動部隊として転戦を繰り返す。全体を通して「宇宙→地球」「地球→宇宙」とメリハリが付けられていたアニメ版と比較すると、ずっと同じようなところで同じような戦闘が繰り返されるので、展開がのっぺりしているように感じられる。

 さらにいえば、登場人物のセリフや地の文がとにかく説明的なうえ、その説明がかなり抽象的だ。キャラクターはすぐに回りくどい台詞回しで議論めいた会話を始めるし、唐突に地の文で登場人物の心情の説明が始まるし、謎の擬音がいきなり挟まるし、非常に読みづらく疲れるのである。それら物語以外のノイズの中には、明らかに富野監督本人の主張としか思えないものも多数含まれる。おそらく富野監督には話の結論やその場面の絵面が見えているのだろうが、読者を置いてけぼりにしている感じがあるのだ。以前読んだ時は1巻で挫折しそうになった。

 では、この小説版ガンダムに魅力がないかというと、そんなことはない。これを読むことで、いまや続編と設定が折り重なって第一作放送当初の姿がよくわからなくなっている『機動戦士ガンダム』という物語の、原始の姿が掴めるように思う。そもそも、この小説が書かれた頃はガンダムがシリーズ化して45年以上続く作品になるとは誰も思っていなかった。だからこそテレビ版とパラレルな物語として、終盤でアムロが死ぬという展開も書くことができたのである。

 つまり、今となっては想像しずらい「続編が前提となっていなかった時期のガンダム像」「富野監督が続編や大規模なビジネスの存在抜きに考案したストーリー」が封じ込められているのが、小説版ガンダムなのだ。スニーカー文庫版のあとがきには「新バージョンを刊行するにあたって、アムロが戦死する結末をのちの作品につながるように改変しようとしたが、どうやっても無理だったので恥を忍んで元々の形に近いものを刊行した」と書かれているが、書き直しをしなかったことで「原初のガンダム」の姿がそのまま伝わったのである。

 では、「原初のガンダム」とは何か。ざっくり書けば、それは「富野監督の中では、ガンダムとはニュータイプの物語だった」ということである。魅力的な軍人のサブキャラクターや、多種多様なメカが登場して生々しい戦場ドラマを繰り広げたことが、アニメ版『機動戦士ガンダム』の特徴だ。しかし、小説版ではそれらの要素はほとんど切り取られている。そのかわりに人が宇宙で生きていくとはどういうことか、宇宙で人はどう変わっていくのか、そして人の変化すら戦争の道具としてしか活用できない人類とはいかに悲しい存在か、といった問題意識にひたすらフォーカスし、それ以外の要素を削ったソリッドな小説なのだ。

 「ニュータイプとは何か」という点に関しては、小説の中でかなりはっきりと定義されている。第3巻では人類の第一のルネッサンスを「猿から人への変革」、第二のルネッサンスを「封建から中世の文明を得た人間」とし、第三のルネッサンスとして「宇宙を得た新しい人」の出現を想定している。その「新しい人」とは「より広大な時空をも一つの認識域の中に捉え、それによって一つ一つの事々へのより深い洞察力とよりやさしさを持った人」と書かれている。これが小説版ガンダムでの覚醒したニュータイプの定義と言っていいだろう。このあたりの定義づけには『2001年宇宙の旅』からの影響もみられる。

 この覚醒については同じく第3巻に「一人ひとりが眠っている大脳細胞を目覚めさせた時、人は変わろう」とも書かれており、この時点で富野監督は「広大な宇宙に人類が進出すれば、地球での認識域に比べてより広い範囲を何らかの感覚によって認識する必要が発生する」「それを為すのは通常は半分以上の機能が眠っている大脳であり、この脳の働きが目覚めた時、より広大な時空を認識して物事を洞察・感応する力を持った人間が現れる」と考えていたことがわかる。

 小説版ガンダムは、このニュータイプの存在について極めて真摯に考え抜かれ、さらに劇中全ての道具立てはニュータイプ同士の邂逅と戦闘を描くために配置されている。例えばミノフスキー粒子の「レーダーが無効になる」という設定は巨大ロボット同士の近接戦闘を成立させた。小説版ではこの設定を流用して、「目視で敵を探すしかないため、視界外の敵を感知する脳の働きが覚醒。アムロをはじめとするニュータイプたちは戦いの中でその能力を磨き、互いに感応する」というストーリーの足掛かりとしている。リアルなロボットアニメを成立させた設定が、小説版ではニュータイプ出現の条件になっているのだ。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「書評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる