杉江松恋の新鋭作家ハンティング グラフィティそのものが小説となった『イッツ・ダ・ボム』

グラフィティ小説『イッツ・ダ・ボム』

 未知の世界を言葉で作り上げている作品を小説として読みたいと思う。

 第31回松本清張賞受賞作である井上先斗『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋)を読んで、あ、これだな、と思った。新人のデビュー作ではあるが、小説に求められるものが、小説にしか応えられないものがふんだんに詰め込まれている。小説らしい小説だ。

 題材として用いられているのはグラフィテイ、つまりストリートなどに残される落書き芸術である。世界中に作品を残して歩いているバンクシーという存在が一般に知られるようになって久しい。本作は、突如日本に出現したブラックロータスという謎のグラフィティ・ライターを巡る物語である。

 第一部は雑誌ライターの〈私〉が視点人物となる。後に大須賀アツシという名前が判明する〈私〉はグラフィティについては専門外だが、ブラックロータスに関心を抱いてこの世界の取材を始める。一般読者にかなり近い位置にいるので、彼がグラフィティについて一つひとつ知見を深めていく過程には親近感を抱くはずだ。感心したのは、説明調で読者を退屈させる箇所が皆無である点である。この第一部は一人称私立探偵小説の形式、つまり視点人物がさまざまな対象にインタビューを行っていくことで事態の全容を少しずつ解き明かしていく、というミステリーの構造を応用している。ブラックロータスの作品が道標になるわけである。

 ブラックロータスについて一つの結論が出た時点で、物語は第二部に入る。本と同じ「イッツ・ダ・ボム」という題名がつけられていることから判るように、こちらが主部だろう。第一部で〈私〉のインタビュー対象になったTEELというグラフィティライターが主役を務め、今度は当事者の立場からこの表現形式が語られていく。

 私はグラフィティの門外漢だから、題材についてこの小説がよく書けているかどうかの判断はできない。それ以外の部分について紹介している。おそらく井上も専門家ではなく、学んでこの小説を書いたはずだ。外側からまず接近し、次に内側の人間を出すという構造がそれを示している。ブラックロータスは井上自身がこの題材を理解するための論点なのだ。ブラックロータスを批判する人、肯定する人の意見が交わされることによって対象の世界が立体化されていく。第一部の〈私〉は初め定見を持っていないが、「ブラックロータスは大衆の代弁者」というわかりやすい見方についての意見表明を聞いて、初めて大きく納得する。こういう意見だ。

 「ポップっていうか、分かりやすさ全特化って感じ。怒る人がいない。ブラックロータスもそうだよねというのが俺の見方。目先の金のことばっか考えてるリーマンとか、グラフィティなんてやっている不良とか、偉そうな政治家とか、ディスったところで、誰が本気で怒る? みんな、『よく言った!』って賛同するでしょ」

 これを言ったのがTEELである。批評的言辞をいくら重ねてもその対象そのものにはならない、というもどかしさがある。実際に身を投げなければならない。それゆえ第二部からはTEELが交代して語り手となる。そうやって作者は、題材の中に入る。

 井上の筆力を確認できる箇所を二つ引用してみようと思う。

 最初は第一部からで、戸塚というグラフィティライターがマスターピースを書く場面である。マスターピースとはグラフィティと聞いて「多くの人が真っ先に想像するであろうカラフルでポップな文字」のことで、非常に手間がかかるので都会の街中で見かけることはあまりないという。この場面でまず戸塚が行うのは「イラストで言うところのペン入れの作業」で、「複数本引かれたチョークの白線を一本の実線に変えていく」。続いてこういう作業で作品としての実感を伴うものが浮かび上がってくる。

——戸塚は赤線を横に小さく引いた。先ほど書いた白線の枠内を塗りつぶしていくように、文字ごとに上から手を左右に振って塗っていく。動きのコンパクトさに反し付きつけ方は大胆で、白線の上に遠慮なく赤色がかかる。一定のリズムを刻むスプレーの噴射音に心地よさを覚え始めた頃には、文字と文字の間の線もすっかり潰されて、本当に外枠だけがかろうじて読み取れるだけの、真っ赤な塊が壁に出来上がっていた。

 このあと仕上げのくだりがあるのだが、もう十分だろう。描写の的確さを感じていただけたのではないかと思う。この過程を見ていた〈私〉は〈掘り出す〉という言葉を連想する。「一度刻んだ後、塗りつぶして埋めたものを、また、掘り返していく。文字の後に書いた吹き出しや音符といった飾りについても、あるべきものを浮き上がらせていっているという感じ」なのである。

 作者は、視覚的表現であり、構図を説明しただけではすべてを伝えられないものを、制作の過程を描写することによって読者に実感させようとしている。外形だけでは伝わらないものを描くことは難しいのである。音楽の演奏を扱った小説が少ないのはこれが理由だ。専門知識を駆使せざるをえなくなることが多いし、その素養がない者は聴衆の心に引き起こされた反応をもって演奏そのものに代替しようとする。それを考えれば、制作の過程を描くことで、マスターピースそのものを再現しようとした井上が、正面からの勝負を挑んでいるかわかるはずだ。挑戦している。

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