杉江松恋の新鋭作家ハンティング ボーイ・ミーツ・ガールの時間SF『天才少女は重力場で踊る』
物語の中心が実にはっきりした小説だな、と思った。
『天才少女は重力場で踊る』(新潮文庫Nex)は、ゲームブランド〈Laplacian〉創設者である緒乃ワサビの小説デビュー作である。緒乃は理工系の出身で、大学在籍中にイラスト制作会社を創業、後にビジュアル・ノヴェル方面に業容転換して現在に至るという。ゲーム関連はあまり詳しくないので、これ以上書けることはない。
物語の語り手は万里部鉱という物理学科の四年生である。卒業単位を得るため、一石余市教授の研究室を訪れた万里部は、条件としてあるプロジェクトへの参加を求められる。そこで行われていることについては一切口外しないという機密保持契約書を取り交わすというものものしい事業だ。一石教授はアルバート・アインシュタインを思わせる風貌の天才物理科学者なのだが、平凡そのものの学部生である万里部を気に入ったらしい。
2022年、新型コロナウイルス拡大の状況を鑑みて、フランス文学史の後期評価は、教室での筆記試験からメールでのレポートを提出かを選べることになった。万里部は筆記試験を選択した唯一の学生だったのである。「もともとの予定が変わるのがなんか、気持ち悪くて。それに、レポートよりは試験のほうが自分の理解度をちゃんと測れる」からという理由で。「若干神経質。そして、公平性を重んじる」というところに教授は適性を見出したのだ。
この実験がどういうものか、ということは説明が煩雑になるし、実際に緒乃の文章で読んだほうがおもしろいはずなので大雑把に書く。かなり限定的ではあるが、未来との交信を可能とする機器が発明され、時間旅行が机上の空論から実践段階に移されることになったのだ。いかにも影響の大きそうな実験であり、徹底的に情報を秘匿しなければならない理由もわかる。実験施設も大学の中ではなく、JR山手線田端駅にほど近い、元パチンコ店だった建物の中に設けられているのである。
説明の都合上、基本となる設定を先に書いてしまった。物語の冒頭に置かれているのは、この実験に関する話題ではない。万里部が「田端駅から歩いて五分もかからない場所に建つ古びたマンションの一室」にある一石研究室を始めて訪ねる場面から話は始まる。扉が開いたとき、目の前に立っていたのは一石教授ではなかった。
——髪の長いほっそりした少女が憎々しげな視線を俺に向けている。オーバーサイズの黒いセーターは、彼女の線の細さをより際立たせているように見えた。
「帰って」
彼女は仁王立ちでピシャリと言った。[……]
これが本作のヒロインである三澄翠と万里部の初対面の場面だ。繰り返すが、初対面である。にもかかわらずなぜこんなに敵意剥き出しなのか。
三澄翠は万里部よりも年下の17歳だが、すでに大学では特別招聘教授として講義を持っているという天才だ。プロジェクトも、ソフトウェアとハードウェアのすべてが彼女の設計によるものなのである。三澄は一石教授に心酔しており、なんとしてもプロジェクトを成功に導きたいと考えている。だから、どこの馬の骨とも知れない学部生を引き入れることに大反対なのだ。三澄の抵抗も虚しく、万里部はチームの一員に迎え入れられることになる。理論を作り上げた一石教授、それを実現に移した三澄、継続可能な事業としての仕組みを作った二階堂泰志がその主要メンバーである。お気づきと思うがこの小説、主要登場人物の名字はすべて漢数字を含むもので統一されている。
ここで一つの疑問がある。一石、二階堂、三澄というそれぞれ優れた人材によって支えられている事業のどこに万里部は必要とされているのか。平凡な、どちらかといえば凡庸な物理学科生にすぎない万里部を。それを明かすと読者の興を削いでしまうので、ここでは書かないことにする。プロジェクトにとってはとても大事な役回りである、ということだけ書いておこう。彼の行動を通じて、三澄翠というヒロインの知られざる一面が明らかになるということも。