『十五少年漂流記』『ジョン万次郎漂流記』に連なる一作に? 直木賞作家・西條奈加の『バタン島漂流記』を読む
生まれて初めて自分の意思で買った(正確にいうと親に買ってもらった)小説の本は、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』であった。小学三年生の時のことである。この本を選んだことに、特に意味はない。タイトルが面白そうだったからである。だが、これが大当たりだったのだ。
夏の夜、ヨットに忍び込んで遊んでいた十五人の少年。しかしヨットが港の外に出てしまい、さらに嵐に巻き込まれて無人島に流されてしまう。限られた科学知識を駆使し、力を合わせて絶海の孤島を生き抜く少年たちの物語に、たちまち夢中になった。おそらく、その印象が強烈だったのだろう。「漂流記」を題材にした小説を好むようになった。そして時代小説を読むようになると、江戸時代の漂流記を扱った作品に傾倒する。井上靖の『おろしや国夢酔譚』、井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』、『漂流』を始めとする吉村昭の諸作、三浦綾子の『海嶺』、安部龍太郎の『海神――孫太郎漂流記』……。他にもいろいろあるが、これくらいにしておこう。日本の海洋小説の一端は、間違いなく「漂流記」が支えていたのである。
ところが近年、これという「漂流記」がない。2021年に刊行された夢枕獏の『白鯨 MOBY‐DICK』は、ジョン万次郎をハーマン・メルヴィルの『白鯨』の世界に投げ入れ、史実と物語を融合させた傑作だが、「漂流記」の部分は少ない。もっと書いてくれたらいいのにと、悔しく思ったものである。ああ、本格的な「漂流記」を、誰か書いてくれないかと願っていたら、西條奈加がやってくれた。それが、江戸時代の史実際の「漂流記」をベースにした『バタン島漂流記』だ。
江戸から尾張に戻る五百石の弁才船「颯天丸」は、嵐により漂流。十五人の男たちのサバイバル生活が始まった。平水夫の和久郎は、その中のひとりだ。船大工を志したが挫折し、「颯天丸」で働く幼馴染の門平を頼り、同船に乗り込んで一年。ようやく未来に光明が見えてきたところだった。
過酷な漂流を経て、フィリピンのルソン島北部にあるバタン島に漂着した十五人。現地民と揉め、下男にされてしまう。しかしある方法で、故郷に帰ろうとするのだった。
漂流した船をメインの舞台にした小説は、実在の“メデュース号事件”をモデルにした、ジュール・ヴェルヌの『チャンセラー号の筏』などがあるが、数は少ない。多くの「漂流記」は、どこかの島や陸地に漂着している。本書でも漂流の様子が克明に描かれているが、本番はバタン島に漂着してからだ。
ここで「漂流記」のパターンに注目したい。大きくふたつに分けられる。漂着場所が無人島だった場合と、有人島だった場合だ。無人島の場合は、とにかく生き延びるためのサバイバル・ドラマになる。こちらのパターンを代表する作品として、鳥島(潮の流れの関係で、やたらと日本の船が漂着する無人島)を舞台にした、吉村昭の『漂流』を挙げておこう。