映画『哀れなるものたち』を語るうえで欠かせない古典小説『フランケンシュタイン』を読み直す
「哀れなるものたち」に木霊する『フランケンシュタイン』
さて、些か冗長な映画評を綴ってしまったが、「哀れなるものたち」について語るうえで言及しなければならない重要な古典文学がある。メアリー・シェリー(1797-1851)の小説『フランケンシュタイン』である。おそらく、多くの方が名前だけは聞いたことがあるであろう、何度もポップカルチャーでネタとされてきた人造人間の元ネタである。シェリーが同作を発表したのは1818年、ポップカルチャーとしてのフランケンシュタインしかご存じない方には意外な事と思われるだろうが、現代の感覚では完全に古典である。
同作は1910年にモノクロ・サイレントで初めて映画化されると、数えるのも億劫なほどの回数リメイクされることになった。1931年の映画ではまだいくらか原型を留めていたが、何度も映画化されるたびに狼男や地底怪獣と共演することになり、その姿は原典から大きくかけ離れていく。
ケネス・ブラナー監督・主演の映画『フランケンシュタイン』は原題に「メアリー・シェリーの」と枕詞を付けており、数多ある映画の中でかなり原典に近い。メジャー映画ではこのような一部例外を除いて、「フランケンシュタイン」と名のつくものは大半が元の姿からかけ離れたものである。「哀れなるものたち」は「フラケンシュタイン」と名前こそつかないものの、全編に『フランケンシュタイン』が木霊している。
まず、原典からかけ離れた姿しか知らない方に最初に言っておかなければならないことがある。それは「フランケンシュタイン」は「怪物の名前」では無く「怪物を作った科学者の名前」だと言うことだ。スイス人でヴィクター・フランケンシュタインという立派な名前を持っている。
一般的にフランケンシュタインと思われている人造人間は名無しであり、原典では終始「クリーチャー(創造物)」としか呼ばれていない。
「哀れなるものたち」に当て嵌めると、ゴドウィンがフランケンシュタインでベラがクリーチャーにあたるが、ビジュアル的には父親に肉体をいじられてグロテスクな姿になったゴドウィンの方がよほどクリーチャーらしく、普通の見た目のベラの方がよほどフランケンシュタインらしい。
このビジュアル的な逆転現象は面白い。ゴドウィンは肉体の死を迎えたヴィクトリアに電気ショックを与えてベラとして蘇生していたがこの方法は原作の『フランケンシュタイン』がクリーチャーを生み出した方法を踏襲している。ヴィクトリアという名前もヴィクターを女性系に変形させたものである。ゴドウィンは原典を生み出したメアリー・シェリーの父ウィリアム・ゴドウィンから来ているのだろう。
『フランケンシュタイン』のクリーチャーは鋭敏な頭脳を持ち(クリーチャーの脳はヴィクターの亡き恩師のものである)、優れた学習能力で様々なことを学習していく。終いには創造主であるヴィクターを出し抜くほどの知性を手に入れる。
この過程は幼児の脳の状態から知的なレディへと成長していくベラと酷似している。そういった意味で「哀れなるものたち」は多くの「フランケンシュタイン」と名のつく作品よりよほどフランケンシュタインらしい。決定的に違うのは「哀れなるものたち」のクリーチャーには「ベラ・バクスター」という立派な名前があり、何よりも「愛された」ことだろう。
これは彼女が女性の肉体を持ち、美しい容姿をしていることも理由として大きかったことだろう。対して、原典『フランケンシュタイン』のクリーチャーは醜かった。創造主のはヴィクターはそのあまりのおぞましさに、即座に放逐したほどである(「甦ったミイラとてあれほどおぞましい姿はしていますまい」(芹澤恵・訳))
その醜さゆえに誰からも愛されず、終いには創造主であるヴィクターへの復讐を誓う。ベラが"生み育てた"ゴドウィンを慕い、またゴドウィンに愛されたベラとの致命的な違いである。誰にも愛されなかった『フランケンシュタイン』のクリーチャーは哀しい。
筆者には原典のクリーチャーの方がよほど「哀れなるもの」に思えるのである。