「あらゆる場面で意識する存在」三谷幸喜、ジェームズ・サーバーからの影響と『世界で最後の花』の魅力

――今も世界中で戦禍が絶えないなか、あらためてサーバーの絵本が見直されているように、芸術を通じてできることはあると思いますか。

三谷:難しい問題ですね。もちろん僕にだって主義や主張はあるんだけれど、僕の場合、それを伝えるための道具として映画やドラマ、舞台を利用したくないんです。もし本当に僕が世の中を変えるために何かしようと決めたら、自分の口でしゃべると思う。作品で何かを訴えることはあんまりしたくないんですよね。僕が作品を通じてできるのは、守らなければならないものが守られなくなっている人、守るために頑張っている人たちがほんのちょっと息抜きできるための場をつくることなのかな、と。裏を返せば、それ以上のことはたぶん僕にはできないだろうな、と思います。ふだんはあんまり、そういうことすら意識していませんけどね。

――「笑う」って大事だなと三谷さんの作品を観ていると思います。つらいことが続くと、どうしても「考える」ことができなくなって、文章を読むことすらしんどい、というときに、三谷さんのドラマや映画を観ているだけでほっとする、ということがありました。

三谷:長く仕事をしてきたなかで、執筆に行き詰まることも何回かあって。来週オンエアされるドラマの脚本がまだできていない、この責任をどうとればいいのか、もう自ら命を絶つしかないんじゃないかと本気で思うくらい追い詰められたこともあります。書けないときって、本当に書けないんですよ。ホテルに泊まって徹夜で向き合っているのに、朝になっても一行も書けていない。絶望なんて言葉じゃ言い表せないような気持ちの時に、たまたまテレビをつけたら『Mr.ビーン』が放送されていたんです。僕はその時、初めて見たんですよ。

三谷:たぶん、オンエアが始まったばかりの頃じゃないかな。それがもう、おかしくておかしくて。笑っているうちに、どん底の気持ちにほんの少し光が差しこんだ。そういう経験を何度かくりかえすなかで「笑いの持つ力はすごい。人を変えるし、助けてくれることもあるんだ」と感じています。僕の作品で誰かの人生を変えたいとまでは思っていないけれど、ほんのちょっと背中を押してあげるとか、小さな助けになることくらいはできるんじゃないかな、と。

――それは、先ほどおっしゃっていた「オブラートに包む」表現だからこそ、という気もします。自分で考える余地というか、余韻を残してくださるから、観る側が勝手に解釈して、励まされる。

三谷:余白は大事ですよね。『世界で最後の花』も、絵や文章で描かれていない部分に、大事なことが詰まっているというか、いろいろ考えさせてくれる技術があるような気がする。色もほとんどついていないから、それすら想像させられるし。ただ、こうして僕らが作品について語り合う事すら、サーバー自身は素直に受け取ってくれない気がするな。「こんなの五分で描いたもんだ」とか「何も覚えてないね」とか言いそうだな、って。僕のイメージですけどね(笑)。あんまり作品について語りすぎるのは野暮だという気もする。

――読者としては、深読みしたくなっちゃいますけど。

三谷:さらっと何度も読み返せばいいと思います。先ほども言いましたけど、実はそこまで考えて描いていない可能性が高いから。僕だってそうなんですよ。『鎌倉殿の13人』が放送されていたとき、SNSでは多くの人が考察してくれていたけど、正直、脚本家は先に進むことで頭がいっぱいで、みなさんが思うほど細かく考えていたわけじゃなかった。考察を読みながら「そういう考え方もあるのか、おもしろいな」とか「みんなが予想しているからこの展開はやめておこう」とか考えることもあったくらい。

――そんなことが(笑)。

三谷:ただ、自分でも思ってもいなかったところで史実とリンクしていたり、思わぬ伏線を拾えたりすることはあって。作者だからといって物語のすべてを把握していると思うのは驕りなんだ、という気がしています。目に見えぬ場所に物語の完成形がすでに存在していて、僕はそれを形にするため誰かに書かされているんじゃないのかな、と。舞台の場合、稽古をしているときに、初めてセリフの意味がわかるときもある。「このセリフはAさんに向けたつもりで書いたけど、実はそのときうしろにいたBさんに向けたものだったんだな」とか。

  ものをつくる人間が全員そうだとは言わないけれど、自分が書いているものの意図を理解しきらないまま、なにかに突き動かされるように書いている作家もいる。ひょっとしたらサーバーもそうかもしれない。だからこれ以上、この絵本の深読みは僕はしたくない。したくないけど、皆さんはそれじゃ納得しない。だんだんそんな気がしてきた。というわけであえてこじつけますけど、『鎌倉殿の13人』を書いていても思ったけれど、戦争が好きな人って、やっぱりいないんですよ。

――戦国時代に生きていても。

三谷:鎌倉時代もそうだし、戦国時代もそうだと思う。もちろん今みたいな平和の観念はなかったと思うけど、基本的にいつの時代だって人は刺されたら痛いし、戦うのは怖い。負けるかもしれない不安のなか、それでも戦わなきゃいけないのは、他に道がないから。そう考えると不思議な気持ちになりますね。本音の部分で戦争を望んでいないのなら、何か手の打ちようはあるだろうという気もする。俺は人を殺すのがたまらなく好きなんだって危険な人たちが大暴れしているんなら別だけど、大半はそうじゃないわけで。ほとんどの人がやりたくないと思っているのに、戦争はなくならない。

   でも回避する道はきっとあるはずなんです。難しいかもしれないけど、必ずある。だからどんな局面においても、その道を探ることから逃げてはいけないんじゃないかなと思いますね。「戦争は必ず起きるもの。人は戦うことをやめられない動物である」なんて結論を出してしまっては、何も生まれない。

――まさに『世界で最後の花』はその道を探るための問いかけがなされている気がします。

三谷:今あなたが悩んでいる悩みは、人類で最初の悩みではなく、同じ悩みを持つ人が絶対過去にもいたんだ、というようなセリフをミュージカル『日本の歴史』でも『鎌倉殿の13人』でも書きました。それと同じで、太古の時代から戦争が繰り返されていることに、今一度立ち戻って考えなくてはならない、とこの絵本は言っている気がします。

  歴史のなかに必ず答えがあるからそれを模索しなさい、って。でもね、本来はもっとシンプルに、サーバーならではのリズムのいい文章と独特なタッチの絵を楽しめばいいんじゃないのかな、そんな気がします。あんまり深読みすると、サーバーさんに叱られますよ、きっと。ごめんなさいね、サーバーさん。

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