荒俣宏の最後の小説は、日本人の導きの星だーー福澤諭吉の史実に揺らぎを与える『福翁夢中伝』

荒俣宏、最後の歴史小説『福翁夢中伝』

 さて、いままで触れなかったが、本書には特殊な小説技法が採用されている。晩年の福澤の語りで進行するが、そこにさまざまな時代の福澤が現れ、口を挟むのだ。さらにアラマタ某という本書の作者も現れ、福澤の話に疑問を呈したり反論したりする。なぜ作者は、このようなスタイルを起用したのか。おそらく、史実を複眼的視座で捉えたかったのだろう。

 たとえば、今までに無数の作品が執筆されている織田信長を描いた歴史小説の新作を、なぜ読むのか。私の場合は、作者の史実や人物の解釈を知りたいからである。本書も同様だ。よく知られた福澤諭吉を、作者がどう解釈しているのか興味があるのだ。ところが作者は、さまざまな時代の福澤や作者を出すことにより、福澤の語る〝史実〟に揺らぎを与える。そこから生まれる幅が、本書をユニークな歴史小説にしているのである。

 もっとも、さまざまな時代の福澤は、すぐに登場しなくなる。作者自身も、福澤に本人の知らない未来のことなどを教える情報要員になってしまう。最初に揺らぎを与えたことで、役目は終わったということだろうか。まあ、福澤の話が面白すぎて、気にならないから問題なしだ。アメリカで指摘された、咸臨丸の秘密任務の可能性。私塾が大学になる過程に生れた軋轢。明治十四年の政変との関り。伝染病研究所への肩入れ。どれもこれもが興味深い。そして晩年に至って福澤の至った、近代の日本人の目指すべき姿は、現代を生きる私たちにも通用するものである。だから荒俣宏の最後の小説は、日本人の導きの星といっていいのだ。


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