BLの源流『JUNE』元編集長・佐川俊彦インタビュー「女の子は美少年の着ぐるみを着ると自由になる」
1978年に『Comic Jun』として創刊され、同名ブランド「JUN」があったことから第3号より『JUNE』と改題されたこの雑誌は、女性向けの男性同性愛をテーマとした点で後のBL(ボーイズラブ)の源流となった。かつて“JUNE”は、このジャンルの総称でもあったのである。マンガ中心の同誌は一時休刊をはさみつつ1980年代に熱心なファンを獲得し、1982年より姉妹誌『小説JUNE』も発行された。だが、BL台頭後はテイストの違いから退潮を余儀なくされ、2013年に『JUNE』ブランドの雑誌は姿を消した。『JUNEの時代 BLの夜明け前』は、アルバイト時代に同誌を企画して編集に携わり、やがて編集長となった佐川俊彦の回顧録である。彼は、時代の推移をどのように見つめていたのか。(円堂都司昭/6月10日取材・構成)
男同士は美しいという感覚は、女の子に広まっていました
――若い頃からマンガに親しむなかで、『JUNE』という雑誌を発想する出発点となった作品はなんですか。
佐川:竹宮恵子『風と木の詩』、萩尾望都『トーマの心臓』など有名作品はありますけど、特にこれに衝撃を受けたというのではないんです。友だちから借りた少女雑誌を見ていたら、なんだかみんなが男同士を描き始めていた。ただ、石森章太郎さん(石ノ森章太郎の旧名)が『マンガ家入門』に載せた自作『龍神沼』は、少女マンガだけど男性主人公だったから、竹宮さんたちがそれを読んで「少女マンガでも男性が主人公でいいのでは」と考えたのではないかと想像しています。
――子ども時代から少年マンガだけではなく少女マンガも読んでいたんですか。
佐川:小学校の時、体が弱かったから女の子とも遊んで少女マンガを借りたし、妹が『りぼん』を買うようになってからは少女小説も含め、当たり前に読んでいました。
――同性愛を描き始めた世代でもある24年組と呼ばれた少女マンガ家たち(昭和24年前後生まれの青池保子、竹宮恵子、大島弓子、萩尾望都、木原敏江、山岸凉子など。今年6月8日に亡くなった佐川の妻・ささやななえこ=旧名ささやななえもその1人)に自然に触れた感じですか。
佐川:僕は『COM』(手塚治虫が創設した虫プロの子会社の月刊マンガ誌)を創刊号から読んで影響を受けていて、同誌からは竹宮さん、萩尾さん、山岸さんなども登場したのでその流れが大きかったです。
――『JUNE』は過去にないコンセプトでしたから、企画、創刊の際、各方面への説明に困ったんじゃないですか。版元のサン出版(現マガジン・マガジン)は、すでにゲイ向けに『さぶ』を発行していただけに、社内への説明はかえって難しかったのでは。
佐川:そうです。「ゲイ雑誌なのか?」って。現在もそうですけど「レズビアン雑誌を出せないか」みたいな企画が時々出ますすけど、基本的に女性はポルノっぽい雑誌は恥ずかしくて買えないので、社会運動のような本しかなくてエンタテインメントの方は無理となる。そこに『JUNE』がハマったんです。最初は「なぜ女の子が男同士を?」といわれ、「女同士のからみなら男は喜んで見る。逆に男が映ると邪魔で嫌な感じがする。女の子も同じで、女が映っていると腹が立つ」と説明すればわかってくれる。「男だったら女同士は2倍お得。女の子だったら青年+少年で2倍お得」といえば、わりと説得できました。
エロの総合出版社である社内で説明が難しかったのは、男の場合、その写真や小説で抜けるかどうかが基本なんです。でも『JUNE』の方は評論を載せたり、マイルドな抜けないページばっかりでした。そのへんは「いや、女性は前戯が大事なので」と弁解しました。
――執筆の依頼や広告のお願いをする際の外部への説明はいかがでしたか。
佐川:同じことを何百回も説明しました。とにかく男が読むゲイ雑誌ではなく、女の子が読む雑誌だということです。空想の世界で男の子は巨大ロボットに乗ったり銃を持つことで強くなるように、女の子は美少年の着ぐるみを着ると自由になって、特に性的な自由が大きい。着ぐるみは美少年でも中身は女の子なので、選ぶ相手は異性の男になる。それを外から見ると同性愛に見えると説明しても、なかなか納得してもらえない。ヒットしてから大日本印刷の人に「よくこんなものを思いついたね」と感心されましたが、コミケにしろロックにしろ男同士は美しいという感覚は、女の子に広まっていましたから。
お金もないしメジャーがやらないものをやろうと思いました
――『JUNE』はマンガ中心でありつつ、米英のロック・ミュージシャンの写真や記事をよく載せていました。『JUNE』的なもののルーツの1つに男性がメイクをしたグラム・ロックがありますけど、よく聴いていたんですか。
佐川:デヴィッド・ボウイが好きだったんです。体が弱かったから本を読むと同時にラジオでビートルズの頃から音楽を聴いていて、レッド・ツェッペリンのようなハード・ロック、ピンク・フロイドなどメジャーなプログレッシブ・ロックから、マイナーなバンドまで好きでした。
――1970年代の少女マンガには洋楽ミュージシャンをモデルにしたキャラクターが散見されましたよね。そういえば、『JUNE』に描いていた竹田やよいは、ロック雑誌の『ロッキング・オン』にもマンガが掲載されていましたっけ。
佐川:実は当時、『JUNE』は『ロッキング・オン』に交換広告を頼んで断られたんです。『本の雑誌』や『ガロ』はOKだったのに。
――そうだったんですか。『JUNE』には『本の雑誌』、『本の雑誌』にはマンガ情報誌『だっくす』(後の『ぱふ』)の広告が載るなど、当時のサブカルチャー雑誌、リトルマガジンは互いに広告を載せあっていました。そういえば『JUNE』の裏表紙にはデヴィッド・ボウイ、ジャパン(イギリスのバンド)などロックの広告が掲載されていましたね。
佐川:雑誌の中ほどに入れる広告は通販などでしたけど、裏表紙にはオシャレなものが欲しかったからレコード会社や映画会社に頼んだんです。読者への情報にもなるし。初期は、カラー広告を載せさせてもらうだけでありがたい感じでしたけど、こういう雑誌が売れるとわかってからは、お金を出すから掲載してくれというところが出てきました。
――『JUNE』的なものへの認知が広がっていくと、反発もあったでしょう。
佐川:それはしょうがない。ある意味正しいというか。実際にはそうではないミュージシャン同士をカップリングしたり、マネージャーとできているとか、妄想を楽しむのは失礼でしょうし、女性にも嫌う人たちがいた。嫌われる理由の1つとして、絵を描ける人がマンガをファンクラブに送ったりするとミュージシャンがとりあげてくれたりして、「横入りするのは卑怯だ」と感じる人もいたようです。
その種のマンガ系の人たちは、実物を好きなリアル系の人たちから若干煙たがられていた。ただ、タレントは虚像を生きるというか、虚像を提供するものでしょう。だから、アイドルはファンのために独身のまま、なかなか結婚しないで歳を重ねたりする。それも不健全だと思いますけど。
――ライバル誌で後発の『ALLAN』は国内ミュージシャンを題材にした妄想小説を掲載して事務所から出禁をくらい、『JUNE』もとばっちりで出禁になったとか。
佐川:その意味で『ALLAN』の方が読者の要望に応えていたのかもしれません。
――比較すると『JUNE』の方は、全体的に欧米寄りのイメージでした。海外作家を装い、その翻訳という体裁で書いたものなど、複数の変名も用いつつ『JUNE』に小説を書いた中島梓の初期作品『真夜中の天使』などは、もともとは沢田研二、藤竜也出演の『悪魔のようなあいつ』から発想され、同ドラマから離れた内容に発展したものでした。でも、『JUNE』は国内ものに近づかなかった。そこらへんは意識していたんですか。
佐川:『JUNE』のようなマニアックな雑誌でメジャーなものをとりあげる必要がなかったんです。例えば、ジャニーズの映画の掲載を拒否されても、ほかの媒体が普通にやっているし、こちらはお金もないしメジャーがやらないものをやろうと思いました。映画のスチール写真はどこでもメインに使うものは決まっているんですけど、当時はアルバムから選べたので、僕は男性が美しく映った写真を必死に探したんです。でも、だんだん権利関係が厳しくなり自由に選べなくなったので、僕はいい時期に仕事したと思います。
反発といえば、「女の子がそんな風に」と嫌がるゲイの方もいましたけど、『JUNE』くらいの少女趣味がいいというソフトなゲイの方もいた。例えば、ゲイ雑誌『薔薇族』の編集長が、女の子から「そんな角刈りではなく、もっと美少年を出せ」と手紙がいっぱいきて「余計なお世話だ」と怒っていました。女の子たちに自分たちの基準が絶対だという心の狭さがあった。だから『さぶ』を発行するサン出版としては時々、『JUNE』にあえて『さぶ』的なものも載せ、本物は違うとさりげなく伝えたんです。
――確かに、少女マンガ的な絵が並ぶ『JUNE』には、ゲイ雑誌やSM雑誌にも描いていた石原豪人(林月光)のイラストも載っていましたものね。
佐川:豪人さんは江戸川乱歩作品の挿絵も描いていたし、挿絵文化の伝統がありましたから、ちょうどいい感じでした。