最注目の小説家・一穂ミチの最新作『ツミデミック』レビュー コロナ禍が浮き彫りにした「帰還不能点」

一穂ミチ『ツミデミック』レビュー

 帰還不能点(ポイン・オブ・ノー・リターン)という言葉がある。離陸した飛行機が空港に戻れなくなる限界点のことだ。ここから敷衍して、後戻りできない状況や心情も指す。一穂ミチの『ツミデミック』を読んでいて、何度もこの言葉が頭に浮かんだ。

 本書には、コロナ禍の日本を舞台にした短篇六作が収録されている。ただしコロナ禍の扱いは濃淡がある。その意味について述べる前に、まずは各作品を紹介したい。冒頭の「違う羽の鳥」は、大学を一年で中退し、今は居酒屋の客引きをしている優斗という若者が主人公。コロナ禍により客が減り、そろそろ別のバイトをしようと考えている。そんな優斗の前に、井上なぎさと名乗る女性が現れる。しかしなぎさは優斗の元同級生で、中学三年のときに鉄道自殺をしていた。ならば彼女は何者なのか。

 ストーリーが進むにつれ、なぎさという少女の人生の断片が見えてくる。また優斗が、彼女の写真を使って、家出少女を装った裏アカを作っていたことも明らかになる。普通の作劇なら、この裏アカに重要な意味を持たせるのだが、作者はそのようなことをしない。なぎさの正体に対して、ある可能性を示しながら、突き詰めることもなく、物語は終わるのだ。それが、ちょっと居心地の悪い余韻を残してくれる。

 続く「ロマンス☆」は、コロナ禍で閉塞感を覚えながら、娘の子育てをしている主婦の百合が、あることを切っかけにして壊れていく。美容院で働く夫は諸々に無理解で、イライラは募るばかりだ。そんなとき、食事を自転車で配達する「ミーツデリ」で仕事中のイケメンを見かける。イケメンのことが気になった主婦は、ガチャ感覚で「ミーツデリ」に注文しまくり、彼が来ることを期待するのだが……。

 コロナ禍の状況が後押しをしているが、主人公が越えてはならない一線を越えたのは、イケメンを目撃したからである。それこそが彼女の帰還不能点。徐々に破滅へと向かっていく主人公を捉える、作者の冷静な筆致が恐ろしい。

 「憐光」は、十五年前の大雨の日に行方不明になった、唯という少女の白骨死体が発見される。そしてなぜか唯が、自分が幽霊になっていることに気づく。ニュースを見た唯の、元担任と元同級生が、あらためて彼女の家にお悔みにきた。それについていった唯だが、意外な真実を知ることになる。

 元同級生は、コロナに感染したことで、人生がねじ曲がっていた。だが実は、もっと昔に、帰還不能点を越えていたのだ。それは元担任も唯も同様である。たしかにコロナ禍は、大勢の人の生き方を変えた。しかし人は、コロナ禍だけで、人生が変わるわけではない。コロナ禍が、すでに越えてしまった帰還不能点を露わにしただけなのである。本書の収録作が、すべてコロナ禍の時代を背景にしているのは、その点を逆説的に浮かび上がらせようとしているのではなかろうか。

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