うんこを漏らしたとき、作家たちはどう対処した? 便意と向き合う『うんこ文学』

うんこ乗り越えるための文学

 20歳の時に人前で漏らしてしまったことのある文学紹介者・頭木弘樹が、似た経験を持つ仲間たちの救いとなるような作品を集めた一冊。それが本書『うんこ文学 漏らす悲しみを知っている人のための17の物語』(ちくま文庫)である。

 収録作は「人間としての尊厳を失う漏らし」「隠せないにおい」「うんこのせつなさ」など6つの「便」にジャンル分けされ、作家たちの多様なうんことの向き合い方を知ることができる。

 第一便「ある日、ついに……」所収の「出口」は、赤瀬川原平名義での芸術活動でも知られる芥川賞作家・尾辻克彦が、大人になり初めて漏らした顛末を記した私小説である。生ビールをジョッキ4杯飲んだ後の帰り道、〈私〉は腹に違和感を覚える。その急激な便意は、映画館やスタジアムなど満員の会場で非常事態が起こり、出口に人が殺到する「パニック」と形容される。

〈最初の群衆が出口を出ていった。私はうつむいて歩きつづけていた。衣服の中を、群衆が駈け降りていく。夜の町はひっそりと静まり返っている〉。濁流に抗おうとせず、何とかやり過ごそうとする姿が痛々しい。〈二度目の群衆が出口を出ていった。私は厳然と同じ歩調を保ちながら、ゆるい坂道を歩きつづけた。ふと見たものには、夜中の普通の歩行者に見えただろう〉。いつもと変わらない歩みに、漏らしたことにも動揺せず尊厳を保とうという強い意志が見て取れる。〈三度目の群衆が出口を出た。晴れ晴れとした筋肉。万歳三唱をするゲートの係員たち。何と素晴しい。何故いままでこれが出来なかったのか〉。ここまでくると、もうヤケである。

 4日後に〈私〉が道ばたで目にした、「そのモノらしきもの」。漏らした時の緊迫感と対照的なその間の抜けた姿形からもわかるが、よくよく考えてみると漏らすなんて、人生において大した出来事ではないはずなのだが……。

 漏らしたことが学校で同級生にバレてしまい、「勉強も運動もよくできる優秀な生徒、山田君」というステータスが崩れてしまう、お笑いコンビ「髭男爵」の山田ルイ53世(自叙伝「ヒキコモリ漂流記 完全版(抄)」)。半地下のトイレ無しの部屋に住み、トイレを貸してくれない1階の大家に〈働くために食ったのだから、排泄くらい自由にできて当然だ〉と主張できずに野糞をし、便意を催す自分の腹に絶望する工場労働者(韓国文学「半地下生活者」ヤン・クィジャ(梁貴子)、斎藤真理子 訳)。漏らすことの痛みを詳細に描いた収録作を読むと、心に渦巻く負の感情を消化するのは、簡単でないことがわかる。

 そんな「漏らした自分」を守るためのヒントが、本書には隠されている。たとえば小説家の阿川弘之はエッセイ「黒い煎餅」の中で、漏らした後に親子三代にわたる〈尻でしくじった〉過去を思い出しながら、痔持ちだし、そういう家系のようだから仕方ないと自分を納得させようとする。

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