インスタントラーメンは芸術と言えるのか? 美学者に聞く「美味しい」という感覚の正体

インスタントラーメンは芸術?

コロナ禍がもたらした「美味しいとは何か」という疑問

著者の源河亨氏

――「美味しいとは何か」「美味しさは味覚だけは判断できないのではないか」とお考えになったきっかけはなんだったのでしょう。

源河:コロナです。コロナ禍で家から出なくなった2020年あたりから、「美味しいとは何か」を考えるようになりました。緊急事態宣言などで外出ができない時期、自炊をするようになったんです。自分で料理をすると、味だけではなく見た目も気にするし、きれいにできたときなどは嬉しくなる。我ながら「複雑な評価をするものだな」と感じました。

 その時ふと、「自分はいったい何と比較して、うまくいったと感じたのだろう」と疑問をいだいたんです。人が「美味しい」「美味しくない」と判断するとき、知覚には何が起こっているのか。そこに興味を持ちました。

――言われてみれば、不思議ですよね。自分でつくって自分で食べるものなのに、「美味しくなった」と感じるなんて。知覚に変化が起きたのでしょうか。

源河:そうだと思います。私は料理をつくったり、食べたりする行為は「音楽に近い」と思ったんです。自炊をするとき、インターネットでいろいろなレシピを検索して参考にしたり、料理をつくる動画を観て真似たりする。他人が作成したレシピに従って自分も同じようなものを調理する。その行為に対し、「これは譜面に従って曲を弾いてみる行為に似ているな」と感じたんです。そして毎日料理をつくるプロセスがあるなかで、まるで演奏が上達したかのように「昨日よりもうまくなった」と感じる日がある。「これはいったいどういう作用なんだろう」と。

――自炊をした経験が、新しい感覚を開いたのでしょうか。

源河:料理をした体験を経て、これまで気に留めていなかったことに、注意が向くようになるんですよね。楽器が演奏できるようになり、楽器に関する知識が増えだすと、曲の聴こえ方がまるで変わってくるって経験、多くの人にあると思うんです。きのうまでは気がつかなかったのに、「この曲には、ここに細かい音がいろいろ入っていたんだ」って。料理も同じ。自分でつくるようになると、これまではわからなかった調理法や調味料の存在に気がつくようになる。

――コロナの時期が源河さんにもたらした影響は大きかったんですね。

源河:自分で料理をつくるうちに、「知識が料理に与える影響」「美味しくするために、人はどこに注意を向けているのか」などを考えるようになりました。料理も音楽と同じように、注意の向け方を変えると脳内の組織が影響され、味に対する知覚も変化するんだなって、身をもって知った。そのように、自分で料理をしていない頃は考えもしなかったことが、いっぱい気になってきたのです。

――つまり「美味しい」とは、単なる味覚の反応ではなく、五感の働きであり、さらに知識や経験によって変わってくるということですか。

源河:そうですね。人は食べ物を口に入れた瞬間、すぐに「美味しい」「まずい」と判断している気がしてしまう。けれども、実は「美味しい」「まずい」と判断できるのは、知識であったり、これまで食べてきた経験が蓄積された結果であったり、そういった積み重ねがあるおかげではないかと。それがあるから素早い判断がくだせるようになったのではないかと考えます。

――「美味しい」とは何か、その考察を深めるためには、自分で調理する経験がとても大事なのですね。

源河:絵画だったら構図、音楽だったら「このハーモニーを構成する音は何か」など、訓練すれば知覚の鋭さはどんどん変わっていきます。味覚に関しても、当然それはあるはずなんです。

料理は味覚だけで評価すべきという「純粋主義」は是か非か

――「美味しい」の背景には、複雑な要素がからんでいるのですね。とはいえ一方では、料理を味わう際は一切の知識や情報を遮断し、味覚だけで評価すべきという「純粋主義」があります。これについては、どのようにお考えですか。

源河:知識を無視し、「何の偏見もなく食べるのが正しいんだ」って言う人、けっこうな数がいるんです。けれども、ちゃんと考えていないんじゃないかな。知識によって判断が歪められる場合ばっかりを強調して、「純粋なのがいいんだ」って言いたいだけなんじゃないでしょうか。

 そもそも、知識を完全に無視して味わうなんて、不可能ですよ。たとえば今、私の目の前には椅子があります。「あれは椅子だ」と知っているから、そこに座ることが可能になる。椅子についての知識を取っぱらい、「なんだあれは」みたいな認識に戻るって、もうできないですよ。

 だから、知識を無視して味わうなんて、ありえないんじゃないかな。仮にできたとしても、食べる楽しみが減っていると思うんですよね。「ここのラーメンにはこういう工夫があって面白い」とか、知識があったほうが楽しめるはず。それをあえて遮断する行為の、どこにいい点があるのか、わかんない。突き詰めて考えれば、純粋主義って、ぜんぜん魅力的じゃない。私たちの食事を豊かにしてくれるものではないでしょう。

――「美味しい」と感じるためには、知識があったほうがよいのですね。

源河:一概によいとは言えないけれど、多くはそうでしょう。音楽ならば、「この曲はこういう伝統やジャンルの流れを汲んでいる」「ここの編曲に工夫がある」などがわかっていたら、よりいっそう楽しめるじゃないですか。曲が生まれた背景について思いめぐらせるのも音楽の楽しみです。それと同じで、食事に関しても、「これはどこの国から来た料理」「調理にこういうアイデアがある」と発見する楽しみって、やっぱり知識があったほうが増えますよね。

 それに、知識がなければ、「値段が高いから美味しいと感じなきゃいけない」というふうになっちゃう。自分自身を守るためにも、あったほうがいい。

「飲食店レビューサイト」の功罪

――「美味しい」を事前に判断する材料として「レビューサイト」があります。外食の際はいまや欠かせない存在となっていますが、源河さんはお使いになりますか。

源河:使いますよ。やっぱ失敗したくないですから。初めて訪れる店なら、値段などを多少は調べます。あるいは、「今日はとんこつの気分じゃないから、とんこつラーメンは行かないでおこう」と、そういう判断をするための材料として読みます。

――知識を得るのは重要だと思うのですが、レビューサイトの評価が絶大なものになってしまう危険性も感じてしまいます。

源河:弊害もありますね。先ほどの「一概には言えない」は、その危険性に対してです。「こういうダシが使われて~」みたいな文章読んじゃうと、そこにばかり注意を向けようとしちゃう。ダシが目立って感じられてしまう。人間の注意力には容量があり、限界があるので、別の魅力が見えなくなっちゃう。ある一側面は際立ってくるけれど、別の側面が覆い隠されてしまう場合も、もちろんある。レビューサイトの文章に促され、味わい方が固定される危険性はあるでしょうね。

 結局、知識を得るために「どう読むか」だと思うんです。レビューサイトで高評価だったのに「ぜんぜん美味しくなかった」とか、悪い経験ばかりをすると、「人の話は聞くべきじゃない」と考えてしまう。悪いケースばかりを挙げ、「味覚は人それぞれ」「知識は邪魔だ」と、極端に偏った主張に走ってしまう人が多いんですよ。

 知識って、きっぱり「よい」「悪い」と言えるもんじゃない。外食する目的などに応じて「よかったり悪かったりする」ものなんです。読む側が、「何を求めているか」「ゴールはなんなのか」を整理していかないといけない。それが「考える」ということなので。

 美学とか哲学っていうのは、大雑把に捉えられがちな観念、偏りがちな主張を、ちゃんと切り分けていって根拠を明らかにし、「私たちの生活のあり方」を考えていこうって学問なので。「美味しいとは何か」をひもとくことで、読者が美学を勉強するきっかけとなってくれればいいなと思います。

■源河 亨(げんか とおる)
1985年、沖縄県生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究院講師。哲学者。専門は心の哲学、美学。知覚や感情に関する理論を応用し、美的経験や芸術経験の研究をしている。著書に『感情の哲学入門講義』、『知覚と判断の境界線 「知覚の哲学」基本と応用』、『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』(ともに慶應義塾大学出版会)がある。

■書籍情報
『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』
著者:源河 亨
出版社:中公新書
価格:902円(税込)
発売日:発売中
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/08/102713.html

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