『鎌倉殿の13人』で注目の大姫、なぜ20歳で亡くなった? 直木賞候補『女人入眼』が描く、女たちの生き方
歴史は勝った側のものの記録とよく言われるが鎌倉幕府の誕生と繁栄の歴史はまさにそうで、鎌倉幕府・執権・北条家の公式文書とされる「吾妻鏡」と、僧・慈円の視点で書かれた歴史書「愚管抄」との記述の相違を比較する楽しみがある。
直木賞候補にもなっている永井紗耶子の『女人入眼』(中央公論新社)は「吾妻鏡」のなかで記述が薄い源頼朝の娘・大姫について想像の翼を大きく広げ、かつ細やかに羽ばたかせた物語だ。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK)でも大姫のエピソードが放送されたこともあって気になる題材である。
「鎌倉幕府最大の失策」と呼ばれる謎多き事件・大姫入内。その背後には、何があったのか
本の帯にはこう書かれた事件の謎を解き明かすのは鎌倉幕府政所別当である大江広元の縁薄い娘・周子だ。文人の娘らしい才媛で、20歳の若々しい好奇心や感性や野心ももち合わせた魅力的な主人公だ。
建久六年(1195年)。征夷大将軍に任命されてから3年が経過した源頼朝は宮中との関係を深くするため大姫を入内させようと考えていた。宮中で六条殿に仕えていた周子はその計画の手助けをすることになり鎌倉へ入る。そこで見た光景は宮中とはまるで違う女たちの生き方だった。
周子が鎌倉に入っても大姫とはすぐに会えない。彼女は気鬱の病を抱えていて面会の日が伸ばし伸ばしになる。大姫の気鬱の原因は世間的には怨霊の類のせいだと言われている。鎌倉には悪霊はいて京都には寄り付かないという迷信を周子は信じない。最もおそろしいのは人間だとわかっている理性の人だからこそ、鎌倉を覆う大姫の問題を冷静に見つめることが可能なのだ。
「鎌倉幕府最大の失策」が大姫入内とすれば、10年以上気鬱の病を抱えた大姫がわずか20歳で亡くなった理由は「鎌倉幕府最大の謎」と言ってもいいだろう。それを周子が客観的に観察し考察していく。例えるなら鎌倉版“家政婦は見た”のようである。
大姫の気鬱のそもそもの発端は10年以上も前に遡るとされる。元暦元年(1184年)4月、木曽義仲の息子・義高の死によって大姫は心に深い傷を負った。当時、頼朝と義仲が牽制し合っていたため人質として鎌倉に来た義高と大姫は仲睦まじく過ごしていた。やがて義仲の反乱のため義高の命が狙われる。政子が命乞いをしたものの義高は殺害される。以来、10年以上の年月が経ってもなおも癒えない大姫の心のうちに周子は寄り添っていく。最初に会ったとき虚ろな瞳をしていた大姫。彼女はなぜ感情を外に出せなくなったのか、その原因は母・政子にあった。政子をいわゆる“毒母”として読めば鎌倉時代が俄然身近に感じられる。だが、ここ鎌倉では母と娘の問題は、もっと大きな政治的な問題に発展していく。
頼朝に命じられて義高を討ち取った藤内光澄を頼朝に頼んで殺してしまった政子。その後の政子の行動は頼朝の死後、尼将軍となり鎌倉幕府の実権を握る者の片鱗にも見える。
宮中では、帝と后は並び称されるものではない。しかしここでは時には御台所の御意向が、御所様を上回ることがある。この鎌倉は御台様と北条なくして語ることはできぬのだ。
周子は広元にそう助言される。