「小説に書かれることは必ずしも道徳的に正しいことではない」 葉真中顕が語る、読み手と書き手の共犯関係

葉真中顕が語る、読み手と書き手の共犯関係

読み手と書き手の共犯関係


――本作の作中作は私小説的なので、小説の内容と作者を同一視したくなります。実際、小説と作者はイコールではないけど、どこかに共通点があると思って読むことも多いと思いますが、どこまで同一視していいものか、読者としていつも悩みます。本作を読んで、そういう悩みも可視化されているように思いました。

葉真中:そうですね。今回は作者がどういう人物かが謎の推進力になっています。ミステリーでは日記などで話が進むことがありますが、今回は私小説がその役割を果たします。葛城は志村多恵の小説を読んで、これはかなりの部分、作者自身の体験ではないかと推理していき、志村多恵と葛城が近い存在なのではというフックになっていて、読者も真相に一緒に近づいていく、そういう形のミステリーが作れたと思います。そして、作品のギミックを通じて読み手と書き手がつながっていく、そういう構造になればいいなと思って書きました。

――つながりを示す言葉として「共犯者」という単語が印象的に使われますね。

葉真中:この作品は、「書くことと読むこと」が大きなテーマになっていて、書かれたものを読むという行為は、ある種の共犯関係にあると思います。作者が書いただけでは小説は文字の羅列にすぎず、誰かが読んで解釈されることではじめて小説になるんだと思うんです。そのプロセス自体が共犯的で、なぜ共犯と呼ぶのかと言えば、小説に書かれることは必ずしも道徳的に正しいことではないからです。実際に、この物語の結末は人によっては道徳的に受け入れがたいと感じるでしょう、しかし、そこに2人の主人公の共犯関係が成立していく。そこに何か感じるものがあると良いなと思いました。

――文学は道徳的にも政治的にも正しければそれでいいというわけではないと。

葉真中:私はせめぎ合いの中でそう思って書いています。これも難しい問題で、例えばさっき言ったヘイト本は良くないというスタンスとこれは両立するのかという思いもあって、表現の自由においてはなんでもありなはずですが、私自身何でもありとは思っていないわけです。そういう線引きの難しさや曖昧さもこの作品に込められています。

 ヘイト本には関わりたくない主人公が、ある局面では関わってしまうし、共犯関係にもなる。そのことは倫理的にズレはないのか読者にそれぞれ解釈してほしい部分で、そういう曖昧なはっきりと答えが出せないものを書くことが小説だと思っています。

――線を引いてしまうと、むしろなぜあなたに線を引く権利があるのかという、ある種のいかがわしさも生まれてしまいますね。

葉真中:そういうことは大事だと思います。書くことは線を引くことではなく、ある状況の中でテキストを提示して、多様に解釈できる形を作って読者と一緒に作り上げていく。そういう関係が「書くことと読むこと」にはあると思っていて、そのプロセスでしか表現できないものはあるはずだと思っています。

――「共犯」というからには、書き手だけではなく、読み手にも何らかの責任があるとも言えるでしょうか。

葉真中:この作品では編集者が読み手の代表ですので、彼女は主体的にかかわる立場ですから余計にそう言えます。共犯関係を意識するということは、積極的にこの物語の完成に関与するという宣言でもあり、読書は能動的なものだということです。

――この作品は、読書体験を通じて対話の可能性を提示しているとも思いました。

葉真中:私たちは未来にしか進めない存在です。この作品の登場人物はとりかえしのつかない過去を持っていて、特に志村多恵は50代で人生の後半に入っていますし、どれだけ後悔してもやり直すことはできない。しかし、現実ではどうしようもない決定事項に対して、フィクションなら救済をもたらせるので、そういう可能性を提示することがフィクションによる連帯になると思っています。

 社会は人間が作っていますから、その時は良かれと思ってやったことでも、巡り巡って失敗になることもあります。その中でも大切なものや信じられる人間性はあると思っていて、必ずしも正しさを選べなかったとしても、そこで生まれる連帯にはある種の希望があると思っていますし、そういうものを書いていきたいです。

■書籍情報
『ロング・アフタヌーン』
葉真中顕 著
発売日:2022年3月9日
判型:四六判
ページ数:296ページ
定価:1815円(10%税込)
出版社:中央公論新社

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