芥川賞作家・遠野遥『教育』は反教育的なディストピア小説? 「やってる感」を出して今をごまかす世界

遠野遥『教育』は反教育的?

 学校と生徒は抑圧する側とされる側の関係に見えて、違う関係性も浮かび上がる。超能力者が生まれる見通しなど全く無い。なのに、保護者など外へ向けてなのか自分たちへ向けてなのか、軍隊ごっこや有り余る性欲の発散やカードゲームで、何かを「やってる感」を出して今をごまかす。そのための共犯関係を築いているようにも見えるのだ。

 共犯関係にあるのは、読者も一緒ではないか。読み進める内に、そんな不安にも襲われる。これは現代社会の閉塞感や矛盾を描く、遠野遥流のディストピア小説ではないか。もしくは、〈私〉こと佐藤勇人の見た夢の話なのではないか。同じ佐藤姓を持つ真夏は現実世界では妻であり、夫婦生活の破綻した経緯が、彼の脳内で奇妙な学園ドラマに変換されているのかもしれない。そんな解釈をしたところで、作者が作品に込めた思想や意図など何もないとしたら? 読者の側が意味を持たせることで、作品に「やってる感」を出すのに加担しているのではないか。

 自分の読みは正しいのか答えを求めようとすると、ずっとはぐらかされているような心地のする小説である。だが答えがはっきりしないからこそ、自由に幾通りもの読み方を楽しめるのも確かである。卑猥で不道徳な要素よりも、小説に正解を求めるなと言わんばかりの構造こそが、何とも「反教育」的だ。

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