千葉雅也、李琴峰らがノミネート「第165回 芥川賞」はどうなる? 候補作を徹底解説

千葉雅也「オーバーヒート」(『新潮』6月号)

千葉雅也「オーバーヒート」(新潮社)
千葉雅也「オーバーヒート」(新潮社)

 哲学者、批評家としても知られた著者の小説作品である。「デッドライン」(『新潮』19年9月号)が第162回芥川賞候補となって以来、二度目のノミネート。

 本作の「僕」は京都の私立大学の准教授として働いている。ざっくり言えば、私小説とも、恋愛小説とも、紀行文とも読める文章だ。物語的な展開より「僕」の内省を記述する、つまりきわめて「文学」的な作品と言えるだろう。「僕」はいう。「僕」の周りでは夥しく言葉が蠢き、壁のような言葉に囲まれている、と。言語過剰気味の「僕」は壁の向こうの世界をときに憎み、ときに憧れながら見つめる。

 本作の見所のひとつは「僕」が「土地」や「街」に向けるオーバーに分析的な視線だ。学生時代を過ごした東京、馴染みのない大阪、生まれ育った栃木。「僕」は観察眼となり、土地や街を移動しつつ、言語化をやめない。そしてだからこそ、それらを繋ぐ道(線=ライン)もまた本作の重要なモチーフだ。心斎橋キタからミナミへの一方通行、日光道を逆走する車、そして隣合いながらも交わらない平行線のような恋人・晴人との関係。いくつもの線が複数方向に走り、土地と土地が繋がれる。この点と併せて触れておきたい本作の文体的特徴が「比喩」の多様だ。作中の言葉を借用すれば、比喩とは「似た違うもの」を一瞬のスパークのなかで連想させる回路のようなものだからだ。だが、そこで引き合わされる言葉たちもまた隣合いながら、本質的には決して交わらない別のものである。だから可笑しく、悲哀を帯びている。本作を読むことは、そんな一瞬の「凪」のような時間に身を晒す体験だ。

李琴峰「彼岸花が咲く島」(『文學界』3月号)

李琴峰「彼岸花が咲く島」(文藝春秋)
李琴峰「彼岸花が咲く島」(文藝春秋)

 「五つ数えれば三日月が」(『文學界』19年9月号)で第161回芥川賞候補となって以来、二度目のノミネート。

 彼岸花が埋め尽くす島の浜辺に記憶を失った少女・宇実(ウミ)が漂着する。そこで人々は独自の暮らしを営んでいるのだが、とりわけ特徴的なのは言語に関する慣習だ。島では公用語として〈ニホン語〉という独自の言語が話される。だが一方、〈女語〉という言語は、ある年齢以上の女性のみが習得を許され、歴史の伝承に用いられるのだ。だから島では女性だけが〈歴史の担い手〉=島の指導者〈ノロ〉と呼ばれる存在になれる。宇美は、島の責任者・大ノロからこう命じられる。同世代の游娜(ヨナ)とともにノロとなり、今後も島で暮らすこと。

 本作の重要な存在は同年代の男の子・拓慈(タツ)だ。男性でありながらノロになりたい拓慈は内緒で独学し、女語の苦手な游娜より遥かに達者に女語を話せる。にもかかわらず、「そういう習わしだから」という理不尽により、拓慈はノロになれない。宇実と游娜は拓慈に誓う。男もノロになれるよう島の規則を変える、と。受け継いだ歴史を必ず教える、と。作品終盤で明かされる島の歴史を聞くまでもなく、本作が何の戯画で、何を討たんとしているかは明白だろう。最後に彼女らが選ぶ道は楽観的にも見える。だが、悩み硬直する者にとり、その選択は確かに救いだ。

 予想は千葉氏・李氏のどちらかの単独、ないし同時受賞が本命だが、石沢氏が食い込むと個人的には嬉しい。いずれにせよ、発表が待ち遠しい。

■竹永知弘
日本現代文学研究、ライター。おもな研究対象は「内向の世代」。1991年生。@tatatakenaga

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