『九龍ジェネリックロマンス』ラブストーリーの背後にある謎とは? SF漫画としての魅力に迫る
第1巻末、鯨井は工藤の散らかった机の隙間に工藤が自分と映っている写真をみつける。しかし彼女には、この写真を撮った記憶がない。写真を撮った金魚茶巻店を訪れた鯨井は、この写真は「アナタと工藤さんの結婚祝いに。」僕が撮ったものだと、ボーイから言われる。その瞬間、お店の風景が廃墟に変わるのだが、圧巻の心理描写である。
こういった一瞬の感情を切り取ったカットは『恋は雨上がりのように』でも多用されていた少女漫画的な演出だが、恋心のきらめきに用いられた手法が真逆の心情と言えるアイデンティティの不安を見せる際に用いられているのが、本作の面白さだろう。
その後、第2巻冒頭(第9話)では、工藤と鯨井が出会う場面が描かれる。新人の工藤に対して話しかける鯨井は大人の佇まいで終始、工藤をリードしており、1巻で読んだ2人のやりとりとは何かが違う。何より違和感を抱くのは、第1話で工藤が語った「なつかしいって感情は、」「恋と同じだと思っている」という台詞を鯨井が工藤に語ること。その後、全身整形の美女・楊明と飲むことになった鯨井は、写真のことを話した後「私、記憶がないんです」「写真を撮った日だけじゃなく…」「過去の自分を全く思い出せない」と衝撃の告白をする。ここで本作が、鯨井と工藤のラブストーリーの背後に巨大な謎が込められたミステリーSFであることがはっきりする。
物語は鯨井と工藤、そして九龍の外側からやってきた2人の秘密を知っているらしき蛇沼クリニックの院長・蛇沼みゆきと彼と共に行動する男、タオ・グエンの物語が並行して描かれるのだが、鯨井自身のアイデンティティの問題と同時進行で描かれるのが、九龍地区という世界の謎だ。
おそらく多くの読者は、ここで九龍(クーロン)とクローン(細胞や人間のコピー)と重ねられていることに気づくのだろう。実は鯨井と工藤の写真を撮った(現在行方不明の)ボーイはグエンのクローンであったことが語られ、鯨井自身もまた、死んだ(とされている)鯨井Bのクローンではないかと、彼女自身も思い始める。第4巻の冒頭、鯨井Bは工藤に、九龍の正式名称は「第ニ九龍寨城」で、1994年に解体された九龍の跡地にもう一度(違法で)作られた街だと語る。
つまり、街自体が複製された世界なのだが、その九龍地区に対してもグエンは「この九龍はオレの知っている九龍ではない」と言い、鯨井だけでなく工藤も第2の彼(クローン)ではないかと疑いはじめる。このあたりの謎が謎を呼ぶ展開にはグイグイと引き込まれる。
九龍の上空にはジェネリックテラと呼ばれる飛行物体が浮かんでいることが1巻から語られている。ジェネリックテラは、人類の新天地になると言われる人工的に作られた地球で、その計画にはジルコニアンと呼ばれるクローン人間が絡んでいると作中では言われている。まだ、謎がばらまかれている状態だが、全ての謎が複製とオリジナル、懐かしさと恋愛というテーマに集約されており、作品の完成度はとてつもなく高い。ミステリアスなラブストーリーとしてはもちろんのこと、優れたSF漫画としても楽しめる作品である。
■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。
■書籍情報
『九龍ジェネリックロマンス』(ヤングジャンプコミックス)1〜4巻発売中
著者:眉月じゅん
出版社:集英社
https://youngjump.jp/manga/kowloon/