ドラマ脚本家にとっての“作家性”と“商業性”とは 『脚本家・野木亜紀子の時代』著者座談会
医療、刑事、家族、恋愛、ミステリー……そしてジャンルに収まらない、先鋭的なテーマの作品や心を動かす作品が多数生まれた2021年。そんなドラマにおいて大きな役割を担うのが脚本家だ。
リアルサウンド映画部では、2021年8月に発刊された評論集『脚本家・野木亜紀子の時代』(blueprint)の著者である小田慶子、田幸和歌子、成馬零一の3名により、“いま語りたい脚本家”について座談会を企画した。同著でも取り上げた野木亜紀子をはじめ、朝ドラ『おかえりモネ』(NHK総合)の安達奈緒子、2021年に放送された『今ここにある危機とぼくの好感度について』(NHK総合、以下『ここぼく』)の渡辺あや、朝ドラ『スカーレット』(NHK総合)の水橋文美江など、近年の作品における注目の脚本家が手がけたドラマの数々について語り尽くす。(編集部)
多くの作家が向かう「社会と個人の関係」
ーー田幸さんからは注目の脚本家として渡辺あやさんの名前が挙がっていました。2021年4月クールで『ここぼく』が放送されていましたが、どうでしたか?
田幸和歌子(以下、田幸):渡辺あやさんはとても寡作な作家さんだと思うんです。『ここぼく』は特に、気付いたらみんなが真(松坂桃李)のことを笑っているけれど、実際は笑えないよね、というところに至るかどうか、本当は他人事ではない話なんですよね。情報量が盛りだくさんなところを削ぎ落としていくからこそ、伝わる人と伝わらない人がいる感じがありました。渡辺あやさんも野木さんも、人間の多面性を描いているところが共通して面白いところだと思います。『ここぼく』は人間性だけではなく社会の構図を描く面白さがあって、三芳総長(松重豊)は“良心の人”でヒーローのように見える部分がある半面、結果的に三芳総長に権力が集中して強権を進めてしまうという皮肉な結末になっていました。一方で、一番利害のみで動いてそうで、悪い奴に見えていた須田(國村隼)が唯一理事に残る。結局、大学にとって必要だったのは、ある種、須田のように権力とうまく付き合える人物なんだと思わされる部分もあり……。物事を単純化してしまう世の中に対する危険性を提示した作品だと思いました。
成馬零一(以下、成馬):渡辺あやさんは出世作となった映画『ジョゼと虎と魚たち』を筆頭に2000年代に書かれた作品は、“人はどう生きるべきか”という個人的なテーマを扱っているものがほとんどで、社会的な状況はあくまで背景にあるものでした。それが『ワンダーウォール』(NHK総合)あたりから「社会と個人の関係」がテーマとして描かれるようになってきた。それは宮藤官九郎さんも同様で、2010年代の『あまちゃん』や『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(共にNHK総合)では社会や国家といった人間を取り囲む大きな枠組みを描いていた。おそらく震災を経て、多くの作家の目線が「社会と個人の関係」へと向かっているのだと思います。
田幸:そうですね。『ワンダーウォール』のときから『ここぼく』に至るまで共通しているのが、無価値とされるものをすぐ切り捨てる現代の効率性・合理性重視の社会に対する危険性だと感じます。テレビや新聞など、報道が本来果たすべき役割を放棄しつつある今、渡辺あやさんや野木さんなど、感性の研ぎ澄まされた脚本家さん、問題意識を持つプロデューサーさんなど、エンタメの作り手がそこを引き受けている気がします。
成馬:「社会的と個人の関係」を描く作品は、客観的な視点で状況を分析できる人じゃないと書くのが難しいと思うんですよね。昔は時代とシンクロしている若手作家が感性で書くことでヒット作を生み出せたのですが、今の時代は感性だけで書くと空回りしてしまう。その筆頭が野島伸司さんと北川悦吏子さんですよね。野島さんは、配信ドラマやアニメに拠点を移しつつあるし、北川さんは『半分、青い。』(NHK総合)以降は今の状況に適応した作品を書こうとしているけど、感性で書いた部分が良くも悪くも違和感として残ってしまう。対して、遊川和彦さんや岡田惠和さんは自分の感性と社会の価値観のバランスをとるのが上手くて、常に時代状況に対応しながら書き続けている。渡辺あやさんも一見、感性で書く作家に見えるけど、彼女なりに時代の変化を意識して対応しているのだと思います。そんな、感性だけでは書けない時代にもっとも真摯に向き合っているのが野木さんで、だから今のテレビドラマで一番重要な作家になっているのだと思います。
田幸:渡辺あやさんや野木さんなど、女性脚本家のほうが、現実に真正面から向き合おうとしている感じはしますね。古沢良太さんなどはその土俵に乗らない印象もあります。
成馬:古沢さんのアプローチは宮藤さんに近くて、『リーガルハイ』(フジテレビ系)や『コンフィデンスマンJP』(フジテレビ系)は「笑い」を通して社会と向き合った作品なのだと思います。真正面からシリアスに描いたと思ったら、前提条件をひっくり返して混ぜ返す作風なので、賛否はあるかと思いますが、あのストーリーテリングは誰もが自分の信じたい物語を盲目的に信じてしまう状況に対する危機意識の表れですよね。野木さんの作品で言うと『フェイクニュース』(NHK総合)のアプローチに近くて、思わず感動してしまう物語を常に相対化しながらバランスを取ろうとする姿に親近感を抱きます。まぁ、それが逃げに見えるのもわかるのですが……。今の世の中ってユーモアとアイロニーを切り捨てて、直球の表現にしないと視聴者に届きにくくなってると思うんですよ。野木さんと坂元裕二さんの作品がSNSで熱狂的に支持されるのは、現代的なテーマの選び方や対象に切り込んでいく時のスタンスが大きいのかなぁと思います。
小田慶子(以下、小田):話ごとにすごくわかりやすくメッセージが出てくるからですよね。それがあるから野木さんのドラマは届きやすいんですけど、ストレートすぎるという印象もあります。ただドラマの脚本家としては、全部セリフで言っちゃうという、実は掟破りなことをしているんですよね。でも多分そうじゃないといまは届かない時代なんだろうなと。
成馬:『獣になれない私たち』(日本テレビ系、以下『けもなれ』)の時は女性にかわいさや従順さばかりを求める風潮と戦ったけど、婉曲的な表現だったので一部の受け手には気づいてもらえなくて「今のテレビでは遠回しに匂わせても、伝わらない」と発言しているのをインタビューで読みました。だから『MIU404』(TBS系)では開き直って、隊長の桔梗(麻生久美子)には、ストレートに意見を言わせたそうです。※1 おそらく野木さんは、作品ごとに表現を微調整していて『アンナチュラル』(TBS系)や『MIU404』では、テーマをはっきりとわかりやすく語り、『けもなれ』や『コタキ兄弟と四苦八苦』(テレビ東京系)は婉曲的で曖昧なグレーゾーンを残すような書き方をしているんだと思うんですよ。僕はどちらのアプローチも好きなのですが、なぜか強く支持されているのは『アンナチュラル』や『MIU404』の路線で、これは今の視聴者が求めているものの違いなんですかね。
小田:『MIU404』のとき、そうおしゃっていましたね。野木さんがドラマで書かれるものと映画で書かれるものの違いもあって、映画はいろんな視点があっていいけれど、ドラマだとどうしても共感性の競争になると。
成馬:常に商業性と作家性のバランスで格闘している人ですよね。『重版出来!』(TBS系)の視聴率が低かった時に、役者を戦犯扱いして叩くニュース記事が出たことに対して、ご自身のTwitterで凄く憤りを見せていたのが、当時印象深かったんですよね。その時の経験があるからなのか、テレビドラマを作る以上、結果を出さないといけない(視聴率は取らなくてはいけない)と常に思っているようにも見える。だからこそ、伝わりにくい婉曲的な表現は減らして、テーマ性をはっきりと打ち出す方向に作風が変わってきているのかなぁと思います。
小田:そうですね。主演の新垣結衣さんとは何度もタッグを組まれていて、やはり主演を立てて数字を取らせなきゃいけないんだろうと思います。テレビの現場って、そのプレッシャーがものすごく大きいんですよね。
成馬:視聴率を意識して書いている人と書いていない人とでは、作品の内容も変わってくると思うんですよね。木皿泉さんや渡辺あやさんは視聴率を意識せずに書くことができるけど、野木さんにはそういう書き方はたぶんできない。不特定多数の人々に作品を届ける商業作家であろうとする意思のようなものを常に感じます。
田幸:そういう意味で言うと、渡辺あやさんはもうNHKベースでやっていて。多分民放に出るとそういう自分の意に沿わないことをいっぱいやらなきゃいけないとわかっているからですよね。
成馬:朝ドラの『カーネーション』(NHK総合)のような長尺の作品も例外的にありますが、基本的に渡辺さんは短編作家で、民放の視聴率競争の外側にいる人ですよね。だからこそ、自分の書きたいものを自由に書けるという部分がある。とはいえ、最近はNHKでも企画がなかなか通らないとインタビューで答えていて、だからこそ『逆光』のような自主映画を手掛けたりしているのだと思います。いずれにせよ、独特の立ち位置ですよね。