山崎貴は日本のJ・J・エイブラムス? 『DESTINY 鎌倉ものがたり』からその“作家性”を考察

山崎貴監督の「作家性」を再考する

長寿ご当地マンガの実写映画化

 今週の『金曜ロードSHOW!』では、山崎貴が2017年に手がけた『DESTINY 鎌倉ものがたり』が放送される。山崎が2005年〜2012年に実写映画化し、大ヒットを記録した『ALWAYS 三丁目の夕日』3部作(原作タイトルは『三丁目の夕日』)と同じ山岸良平の、1984年から現在まで連載されている代表作を原作としたミステリー仕立てのファンタジー大作だ。

 物語の舞台となるのは、タイトルにもあるように古都・鎌倉。主人公のミステリー作家・一色正和(堺雅人)は、かつて出版社アルバイトとして知り合って結婚した、歳の離れた妻・亜紀子(高畑充希)と、ここに仲睦まじく暮らしている。外から移り住んだ亜紀子は知らなかったが、じつは鎌倉は、人外の妖しい幽霊や魔物が数多く徘徊する不思議な土地だった。正和のほかにも、一色家に長年住み込みで働くキン(中村玉緒)や正和の担当編集者の本田(堤真一)などに助けられながら、亜紀子はなんとか鎌倉での奇妙な生活にも馴れていく。また、そんな人間と怪異が交流し合う世界のなかで、正和は作家活動の傍ら、大仏署長(國村隼)や稲荷刑事(要潤)ら警察の依頼を受けて難事件の解決にも協力していた。ところが、魔物によって身体から魂を抜き出され、身体を隠されてしまった亜紀子は、現世から黄泉の国に行かなければならなくなる。しかし、それは亜紀子と夫婦になることに執着する魔物・天頭鬼(古田新太)の仕業だった。ことの経緯を掴んだ正和は、愛する亜紀子を黄泉の国から無事連れ帰るため、死神(安藤サクラ)などの協力を得て、亜紀子の待つ黄泉の国へと旅立つ……。

山崎貴の「政治性」

 さて、監督の山崎貴といえば、数多くの大ヒット作を持ち、日本アカデミー賞の最優秀監督賞も複数回受賞するなど、名実ともに現代日本を代表する映画監督といってよい存在だ。にもかかわらず、いわゆる「映画作家」として映画批評の対象になることはほとんどないように思われる(実際、正直に告白してしまえば、私自身もその作品を論じたことはほとんどない)。

 他方で、山崎作品が論評の対象になるときというのは、しばしば映画作品そのものというよりも、政治的な「保守性」のイメージとの関連で論じられることが多い。たとえば、新自由主義的なイデオロギーを強く打ち出していた小泉純一郎政権から「美しい国へ」をアピールしていた第1次安倍晋三内閣の時期に重なる『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズは、ゼロ年代のいわゆる「昭和30年代ノスタルジー」の問題と結びつけて語られたし、これも大ヒットした『永遠の0』(2013年)や『海賊と呼ばれた男』(2016年)といった2010年代の作品は、保守論客として毀誉褒貶の著しいベストセラー作家・百田尚樹が原作ということで、これもある種の「色眼鏡」で見られがちな作品だったといえる。

 また、彼が映画監督の一方で東京オリンピック開会式・閉会式のエグゼクティヴ・クリエイティヴ・ディレクターを務めていることも、そうした印象をより強めているだろう。ほかにも、もともとはVFXや特撮出身であり、彼の監督作品のトレードマークにもなっているきわめてクオリティの高いデジタル視覚効果の演出は、やはり脱イデオロギー的な「テクノクラート」のイメージを感じさせてしまうところがあるし、『ALWAYS 三丁目の夕日』や『永遠の0』、そしてまさに「ドラ泣き」というコピーで興行収入約84億円の超ヒットとなった『STAND BY ME ドラえもん』(2014年)などに典型的な、観客の涙腺を崩壊させること
に特化した「泣かせる演出」も、リベラルが嫌うようなプロパガンダ性やポピュリズム志向に傾いているきらいがあるだろう。

 こうしたイメージや一部の批判に対しては、山崎の側でも特に積極的にコメントしないため、結果的に、山崎貴=体制迎合派・保守派のクリエイターという印象がますます強まっているように見えるのだ。

 ただ、こうした山崎の映画作家としての特徴は、それとはまた別の具体的な演出や表現の側面からも指摘できるように見える。このコラムでは、この『DISTINY 鎌倉ものがたり』を題材に、その山崎の持つ独特な「作家性」について考えてみたい。

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