ポストジブリという問題設定の変容、女性作家の躍進 2010年代のアニメ映画を振り返る評論家座談会【後編】

 年が明け2020年に突入。同時に2010年代という時代も終わりを迎えたリアルサウンド映画部では、この10年間のアニメーション映画を振り返るために、レギュラー執筆陣より、アニメ評論家の藤津亮太氏、映画ライターの杉本穂高氏、批評家・跡見学園女子大学文学部専任講師の渡邉大輔氏を迎えて、座談会を開催。10年代を代表するアニメーション作家をトピックに語り合ってもらった。

 細田守や新海誠をはじめとするアニメーション監督に注目した前編に続き、後編では、「ポスト宮崎駿」をめぐる議論の変容や女性作家の躍進、SNSとアニメーションの関係性について語り合った。

ポストジブリという問題設定の時代

宮崎駿監督『風立ちぬ』

渡邉大輔(以下、渡邉):「ポストジブリ」「ポスト宮崎」という問題設定がいまでもしばしばなされますが、僕自身はこんな見立てを持っているんです。おそらくそれに関しては、2010年代の前半と後半で、アニメ映画に関する問題設定がかなり決定的に変わったのではないでしょうか。

 まず、2013年に宮崎駿監督が大々的に長編監督の引退宣言をしました。引退宣言は毎度のことだし、実際にその後にまた撤回したわけですが(笑)、それでもあの年はやはりいろいろな意味でジブリないし「東映動画的なもの」の時代の終わりを感じさせたと思うんです。2013年は宮崎、高畑のキャリアの総括的な新作が揃って公開されました。また2013年は宮崎監督が1963年に東映動画に入社してちょうど半世紀でした。しかも当時の宮崎監督の年齢(72歳)は、彼が尊敬する司馬遼太郎が亡くなった齢でもありました。

 その前後のジブリ作品も、基本的にはジブリの「歴史化」と「継承」の意識を打ち出していました。例えば2011年の『コクリコ坂から』は、高校生がカルチェラタンという古い部室棟を守る話ですが、あの物語の時代設定も、宮崎監督が東映動画に入社した1963年です。つまり、あの物語は、ジブリに至る「東映動画的なもの」の伝統を守ろうとするメタファーなのです。実際、彼らが陳情に行く学園理事長は徳間康快がモデルですし。ともかく、2010年代前半の時点では、2013年の宮崎駿の引退宣言でジブリ的なものが一度終焉を迎えたことが誰の目にも明らかになり、みんながポストジブリ、またはポスト宮崎的な「国民作家」=監督を探ることをアニメ界の重要な問題設定の一つとして考えていた。

 でも2016年に『君の名は。』と『聲の形』に加え、『KING OF PRISM by PrettyRhythm』のような作品も公開され、以降、その問題設定がある側面で意味を持たなくなってしまったように見えます。もちろん『君の名は。』はある意味「国民的」な映画になりましたが、ジブリとは全く違うパラダイムにある。そして何より、大学でアニメ好きの学生と話していても、彼らはもはや作家=監督ではなく、アイドルアニメやその声優たち、そしてアニメと紐づいたゲームや2.5次元舞台が興味の中心にあります。2010年代後半は、ポストジブリ、ポスト宮崎駿という問題設定自体が分散移動していく感覚があります。

藤津亮太(以下、藤津):アニメがこれだけ増えてくるのは、結局みんなキャラクターが好きだということなんだと思います。だからキャラクターがアイドル的に消費され、二次創作的なものが本編で用意されることも多くなってきました。たとえば『Fate』は、本編から派生された作品として『衛宮さんちの今日のごはん』がオフィシャルに作られていたりするように、やはり強い入り口としてキャラクターがあるんでしょうね。ハリウッド映画もほぼ同じタイミングで同様に変わっていて、いかにキャラクターを上手に管理した者が勝者になるかというフェーズに入っているので、そういった世界的な現象の中に日本アニメも位置しているのではないでしょうか。

渡邉:作家主義ではなくキャラクター主体の作品というと、まさにマーベル映画や『スター・ウォーズ』がそうですね。その関連性でいうと、僕としては実は米林宏昌監督が気なっているんです。ちょっとびっくりするかもしれませんが、僕は米林監督というのは、J・J・エイブラムスにちょっと似ていると思っています(笑)。エイブラムスは、『スター・トレック』『スター・ウォーズ』といったハリウッドが作り上げてきた神話的なコンテンツを器用に二次創作する監督で、僕は彼は究極の「二次創作作家」だと思っています。そこに個性はない。しかし、いま神話を継承していくための一つの最適解を提示してはいる。

 米林監督は、いかにも宮崎的な「イギリス的」「北ヨーロッパ的」なモチーフを描き続けている点で明らかにポストジブリを引き受けようとしていますが、しかしその方法が面白いんですね。例えば『メアリと魔女の花』は、『天空の城ラピュタ』や『魔女の宅急便』、『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』といった宮崎アニメの記憶をデータベース的に執拗に参照しつつ、その強烈な作家性は全て脱色して、データベースだけ利用してもう一度再構築している。これは、エイブラムスやマーベルがやっていることとすごく似ているし、それを評価するかは別として、ポストジブリという問いが変容していく中で、その1つの方向性としては充分にあり得ると思っています。

『メアリと魔女の花』(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

藤津:米林監督は、観客の感情を操りたいタイプではないですよね。演出も割とクールで、『メアリ』では、森に入って「怖い」となるときに、すぐに次のカットでは引きの客観的な絵になったので、この人は冷静な演出家なんだなと思いました。だからこそ、『メアリ』では物語が持っていきたい感情の方向性とは少し齟齬を感じましたね。『思い出のマーニー』では全体の謎解きではなく、「マーニーと私が会ったんだ」という実感の1点のみに絞っていてその突破力はすごかった。だから体質に合ったものをやったら、もっと受け入れられるのかもしれません。ただ、ポストジブリ的なものを求められている状況は確かなので、次の作品は逆にその語り口と求められる内容の差異を埋めるのか、あえて埋めないのか、楽しみです。

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