杉江松恋の新鋭作家ハンティング ルイス・キャロル的展開の不眠症小説『アンチ・グッドモーニング』

ルイス・キャロル的展開の不眠症小説

 第175回芥川賞は八木詠美『アンチ・グッドモーニング』だと思ってたんだけどな。

 7月15日に行われた選考会では、既報のとおり『ゾンビ回収婦』(講談社)が受賞した。デビュー作を含む3作はすべて候補になっており、まさに獲るべくして獲った芥川賞だった。小砂川チトは大好きな作家であり、受賞には何の文句もない。嬉しい。わあい。でも、『アンチ・グッドモーニング』が本命だと思っていたのだ。この小説もとても好きだから。

 八木詠美が2020年に発表したデビュー作『空芯手帳』(現・ちくま文庫)は第36回太宰治賞の受賞作で、以来筑摩書房の「ちくま」を主舞台にして作品を発表し続けてきた。『アンチ・グッドモーニング』は2024年秋号の「プリーズ・フォロー・ミー」に続いて河出書房新社『文藝』2026年春季号に発表した作品である。小説の著書はこれが三冊目だ。

 主人公の〈わたし〉こと井上有希は、Sコーポレーションの広報部で働いている。2年前に上場して以来、働きやすい職場としても知られるようになり、井上もたびたびそのことを社外にアピールしてきた。新型コロナウイルスのことを指していると思われる感染症蔓延時からリモートワークが推奨されるようになり、広報部員はほぼ在宅勤務となった。

 なんだ理想的な会社じゃないか、と思うのだが、冒頭では不穏な場面が描かれる。有給休暇をとった井上は友人のNと劇場にやってきた。今から始まる至福の時間に思いを馳せていると、スマートフォンが鳴る。電話の相手は健康情報誌のベテラン編集者で、Sの新商品に興味を持ってくれたという。より詳細な資料を送ってくれないかという依頼に井上は対応しようとする。リモートでもアクセスして送ることはできる。ちゃっちゃっと済ませ、さあ席へ、と思っているとエラーメッセージが目に入った。どうやらデータが大きすぎて、送信に失敗してしまったようなのだ。ならばストレージサービスを使って、と思うのだが、会社のセキュリティ規則が強化されて、それが禁止されていることに気づく。誰かオフィスにいる同僚に頼んで応対できないかと考えるのだが、全面リモートの方針が災いして、その日誰が出社しているかを調べること自体が容易ではない。

 いーっ、となってしまいそうな事態である。なんとかすることはできたのだが、スマートフォンのチャットアプリで上司からのメッセージをうっかり既読にしてしまった途端「お疲れさまです。今チャット見てくれたよね?」と上司から電話がかかってきて、井上の都合も何もなしにいきなり話し始める。逃れることができない無限連鎖、リモートの美名ですべての私生活を勤務時間にさせられる搾取地獄である。

 井上が実は眠れなくなって8ヶ月目であることが明かされる。夜具に入っても眠りの気配がまったく訪れないという夜が突然やってきた。古典的な手法として羊を数えてみたが、こどものころ高原の別荘を訪れたときに体験した嫌な思い出が蘇ってきただけだった。理不尽な仕打ちを受けて怒りを隠しきれない井上を、母親はこう言ってなだめた。

「ほら、いつまでも不機嫌でいないで。いつまでも怒っている人が好きな人なんていないでしょう? 嫌だったのはわかるけど、怒っていて損をするのはあなたなの」

 その夜、眠りのための努力を井上は最後まで放棄しなかったが、報いられることはなかった。意外なことに日中にも眠気は訪れず、そういう夜が連日続くことになる。努力をした後に、ようやく明け方になってわずかな眠りが訪れる。健やかな眠りの代わりに井上が手に入れたのは手足をかんかんと熱くさせる見えない炎だった。眠りをますます妨げるそれを井上は消したいと願うが「けれどわたしはその炎がどこにあるのかわからない」。

 不眠を治そうとするさまざまな努力が綴られていく。一緒に治そうと夫は言ってくれるが、いつまでも睡魔が訪れない妻を後目に彼は毎晩あっけらかんとした眠りに就く。生活習慣を変えるための助言はいくらでもしてくれる夫だが、彼女がメンタルクリニックに通おうか、と話すと否定的な反応を示す。

「ああいう場所はやっぱさ、ちょっと問題がある人が行くところというか、会社の部下でもそういうとこ通っている姑いるらしいけど、やっぱりもともと心が弱いというか」

 先に挙げた母親の言葉と、この夫の意見には共通点がある。優しい顔をしてやってくる同調圧力と、傷ついた者への無関心・無理解である。「ラベンダーのアロマオイルを枕に垂らしながら」井上は「世の中にはもっと大変な人がたくさんいるのだ。これで文句を言うのはきっとお門違いなのだろう」と考える。だが、本当にそうなのだろうか。

 井上が試す対症療法は、すべて絶望的ほど効果が上がらない。その一つに睡眠時に効果があるという健康食品フラモ999を販売する飯沢さんは「あなたが本当に眠れるようになるために必要なのは、その熱を無視しないことだと思います」と井上に告げる。

 私が『アンチ・グッドモーニング』を素晴らしいと思うのは、不眠によって、もしくはそれを引き起こした彼女を巡る状況によって、井上が次第に追いつめられていく様子を極めて客観的な眼差しで描いている点である。井上の日常はある瞬間から変貌し始める。

 それはちょっとした違和の形を装ってやってくる。リモート勤務の井上は、社員に義務付けられている研修もやはりリモートで受講する。ヘビイチゴ色の真っ赤な眼鏡をかけた男性の講師が、突如画面のこちら側にいる井上に話しかけてくる。動画は録画されたもので、リアルタイムでの対話はできないはずなのに。以降、井上が研修を受けるたびにこのヘビイチゴ色眼鏡の男性が現われ、話しかけてくるようになる。

 井上は久しぶりに顔を出したオフィスでそれまで存在自体気づいていなかったドアを見つける。幅は普通のドアと同じくらいなのだが高さは自分の鎖骨くらいまでしかない、「どこかハリボテのような」ものだ。日常の中にこうした違和が少しずつ混ざるようになっていく。前述の飯沢さんが井上の心中を見抜いたようなことを言うのもその一つである。文中でとある人物の笑い顔がチェシャ猫に喩えられる箇所があるのだが、作者はルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(福音館書店他)を念頭に置いてこの作品を書いているのではないだろうか。アリスはウサギを追いかけて穴から不思議の国に落ちるのだが、井上は羊を数えた夜を入口としてそれまでの日常とは違う世界に入り込んでいたのだ。このルイス・キャロル的展開は物語の後半になると次第に濃度を増していく。

 眠れずにいる時間を少しでも有意義に過ごそうと、井上は「不眠症のための読書会」に参加する。だがそれは思っていたようなものではなかった。夜の街で彼女は呆然として立ち尽くす。街角にぽっかりと開いた異界の入口を描いたロバート・スティーヴンソン『新アラビア夜話』(光文社古典新訳文庫他)をこのエピソードから私は連想した。このように、先行作品につながる枝をいくつも持った作品である。

 そういう外見はしていないが、実は古典的な幻想小説の風合いを持った作品なのだ。井上が現実からずれていってしまう過程は、彼女の内面に蓄積された途方もない量の憤懣と、それを引き起こした状況が現実性を疑うほどに非人間的であることを読者に暗示する。幻想小説の骨組みがそのために効果的に用いられているというのが私にはおもしろかった。古い酒を新しい革袋に入れたような、と言うべきか。芥川賞は惜しくも逃したが、非常に好きな作品である。みなさんにもぜひ読んでもらいたい。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「コラム」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる