cero 高城晶平と阿部幸大が語る「言葉・音・独自性」の作法「教養とは『広くて浅い知』のことだ」

阿部幸大×cero高城晶平 批評と音楽の対話

 新著『まったく新しいテクスト分析の教科書』(光文社)が話題を集めている阿部幸大と、ceroの高城晶平の対談が実現した。

 2017年7月に刊行された『ユリイカ』(青土社、2017年8月号)のcero特集において、阿部が「音楽の魔術的リアリズム──ceroと文学をめぐって」と題された評論を寄稿したのが両者の接点。初対面となった今回の対談では、ceroの音楽性、阿部が提示するテキスト分析の方法論を軸に、知的な刺激に溢れた対話が繰り広げられた。

cero論の原点と「広くて浅い知」への共感

阿部幸大氏

――阿部さんは2017年7月に刊行された『ユリイカ』で、「音楽の魔術的リアリズム──ceroと文学をめぐって」と題された評論を寄せています。

阿部幸大(以下、阿部):私の商業誌デビューは、『ロッキング・オン』の「音楽文 ONGAKU-BUN大賞」で入賞したディアンジェロ論だったんです。ドラムのバックビートで、スネアの位置を少し後ろにズラすことでカッコよさが生じるスイートスポットがあり、“ポケット”と呼ばれているんですが、それが2000年代に入ると『Baduizm』(エリカ・バドゥ)や『Voodoo』(ディアンジェロ)など、いま「ネオソウル」の名前で知られるジャンルによって破壊されるんですよね。その現象について論じた文章でした。

 それをアメリカ音楽研究で知られる慶應義塾大学の大和田俊之さんが読んでくれて、「ドラマーにしか書けない」と思ってくれたみたいで。彼もベーシストなんですが、それから少し経って、『ユリイカ』に大和田さんが私を紹介してくれたんです。そのときに書いたのが「音楽の魔術的リアリズム──ceroと文学をめぐって」なんですよね。

高城晶平(以下、高城):なるほど、そういうつながりだったんですね。

阿部:はい。『ユリイカ』は憧れの媒体でしたし、緊張感を持って書きました。なので、ceroというバンドには個人的にというか勝手にすごく思い入れがあるんですよね。

高城:ありがたいです。今回改めて阿部さんの『ユリイカ』の文章を読み返しましたが、まず印象的だったのは「これはSuchmos論でもある」ということで。〈広くて浅いやつ もう Good night〉(「STAY TUNE」/Suchmos)を引用して、それをceroの音楽性につなげて肯定的に捉えてくれていて。自分たちは“広くて浅い”ことがコンプレックスだったりしたので、「それでいいんじゃない?」と言ってもらえた気がして、ちょっと安心したのを覚えています。そういう切り口で書いてもらったこともなかったですしね。Suchmosを引き合いに出してもらって、ちょっと申し訳ないなという気持ちもありましたが(笑)。

阿部:「STAY TUNE」は今もカラオケで歌うくらい好きなんですけど、当時Suchmosはめちゃくちゃ人気だったし、これくらいのことを書いてもビクともしないはずだという算段もありました(笑)。

高城:阿部さんが書かれた『まったく新しいテクスト分析の教科書』(光文社)の最後のほうにも“広くて浅い”を肯定している箇所があって。

ここで教養の定義に立ち入ることはできないが、すくなくとも教養とは「狭くて深い専門知」ではなく、「広くて浅い知」である、とは言えるだろう。(『まったく新しいテクスト分析の教科書』、156頁)

 いきなりまとめみたいな話になっちゃいますけど、阿部さんのスタイルのなかに、“広くて浅い”ことへの肯定があるのかなと思ったし、そこには僕自身もすごくシンパシーを感じました。

阿部:それは完全に自分のなかで方法化していると思います。研究者ってオタクっぽく思われがちなんですけど、私は全然そうじゃなくて。何かにハマることがあまりないんですよ。

高城:そうなんですね。僕も一緒です。

阿部:狭くて深いことにこだわる人がいるのはもちろんいいんですが、どうしても党派性が強くなるし、少なくとも私は全然なじめないんです。だから「何でもかんでも分析する」ということをやっているんですが、この「特定のトピックにコミットしない」ということが、ひいては自分が方法論というものをちょっと極端に発達させる結果になったのだと思うし、『まったく新しいテクスト分析の教科書』にも結実しているんじゃないかなと。

音と言葉はどう噛み合うのか?

高城晶平氏

――確かに阿部さんの分析の対象はめちゃくちゃ幅広いですよね。文学や映画、絵画などと比べて、分析対象としての音楽の特徴みたいなものはあるのでしょうか?

阿部:まず、音楽論を書くのは難しいんですよ。私の研究者としてのスタートは文学だったので、音楽における歌詞――つまり言語――で議論を立てることはできるんですが、言語ではなく、音楽そのものを論じることはかなり難しくて。ディアンジェロ論は上手くいったケースですが、それ以降は一度も上手くいってないんです。特にceroは言語が前に出ているというか、朗読的な側面があるバンドだと思うので、まさに言語で論じてしまいやすいんですが、ただ一方で音楽的な側面もきちんとあるバンドで、それがひとつのスタイルとして成立している。ceroを見てると、「俺もこういうカッコいい人生を歩むはずだったんだけどな」と羨ましくなります。

高城:阿部さんがやってること、めちゃくちゃカッコいいじゃないですか。

阿部:ありがとうございます(笑)。話を戻すと、音楽論を書くにあたっての困難は、引用の難しさとかもあるんですが、もっと抽象化すると、言葉の次元と音楽の次元をまたがなくちゃいけないことだと思ってます。ただ同時に、普段音楽を聴いてるときって、分析はしてるんですよね。たとえば楽器をやっていると、(楽曲を聴いているときに)その楽器を聴かないことはまず無理。で、この「特定の楽器に注目する」というのは、まさにこの本で書いた分析の行為とまったく同じなんですよね。

――分析対象のテクストに含まれる要素のなかで、どこに注目するのか? という。

高城:確かに楽器をやってる人は、どうしてもその楽器の音を聴いてしまいがちだし、それが分析の切り口にもなれば、ノイズにもなるのかも。そういうバイアスはモノ作りのなかに入ってくるだろうし、完全に排除することはできないだろうなと思います。

阿部:そうですよね。ただミュージシャンのみなさんは、音楽を聴いて分析しても、それを言葉に移す必要がない。自分なりの解釈なり参照なりを付け加えて、あらたにオリジナルな作品を作ればいいので。そこが違いかなと思います。

高城:なるほど。

阿部:高城さんはどうですか? たとえばマジック・リアリズムの小説を読んで面白いと思ったとして、それを歌詞として表現することも出来ると思いますが、ceroの場合は、その影響をサウンドそのものにも縦横無尽に取り込んでいるんじゃないかなと。

高城:そのプロセスは言語化しづらいところがあるんですが、確かに線引きや段差みたいなものはない気がします。結局は“ムード”じゃないかなって思うんですよね。「こういうムードがほしい」というボンヤリしたものがあって、それに見合うであろう文章や音楽に触れると、それをメモして。そういうものの集積、ブリコラージュみたいな作業なのかなと。

阿部:ムードが重要なんですね。あとは時期による変化もあるような気がします。『Obscure Ride』(2015年)、『POLY LIFE MULTI SOUL』(2018年)はリズムが前景化したアルバムだったと思うんですが、5枚目の『e o』(2023年)はかなりスタイルが違っている。つまりリズムが後退して、アンビエントっぽいというか、映像喚起的な作品だなと思ったんです。歌われる言葉も変化してますよね。インタビューで高城さんは「以前はどこか無理矢理言葉を当てているところがあったけど、いまは歌うために選ばれている言葉という側面が強くなっている」と仰っていましたけど、『e o』は、まさにそうだなと。

高城:そうですね。たとえば「テレビ」という言葉を発すると“テ”、“レ”、“ビ”にそれぞれ音程があるんですよ。メロディに歌詞を乗せるときも、その言葉がもともと持っている音符を活かしたほうがいいと思うようになって。そのうえで表現したいムードに合う言葉となると、けっこう限られてくるんです。そうやって当てはめていくと、すぐには意味があまりわからないような、でも風景が感じられるような散文が出来上あがる。『e o』はそういうふうに作っていました。

阿部:つまりメロディーが先にある。

高城:『e o』は全部そうです。以前は言葉が先にあることも多かったから、そこはかなり違いますね。

阿部:いずれにしても言葉と音楽がどう噛み合うのか? という問題ですよね。

『テクスト分析の教科書』が解き明かす批評と分析の作法

阿部幸大『まったく新しいテクスト分析の教科書』(光文社)

――より自然な日本語に聴こえるように歌いたいという気持ちもあったのでしょうか?

高城:それもあったと思いますし、独自性ということでは「日本語で歌う」というところにしか究極的にはないような気もしていて。ブラジルの音楽がブラジルの音楽たりえているのは、ポルトガル語の響きに合ったメロディが選ばれているからだと思うんです。自分たちが「ディアンジェロみたいな音楽やりたい」と思っても、技術が足りないってこともあるでしょうけど、日本語を乗せたら全然違うものになりますからね。

阿部:さっき高城さんが話してくれた“ムード”というのが、決定的に重要なポイントだと思います。ムードという位相があれば、そこに言葉でも映像でもサウンドでも、何でも入れることができるというか。『ユリイカ』のcero論で言いたかったことの正体を、おそらく高城さんはムードと呼んでいるんだろうなと。

高城:なるほど……。

阿部:どういうムードを作れるかで独自性が宿るかどうか決まるという考え方もありそうですが、ceroの場合はそうではなくて、ムードというレイヤーに着目すること自体が方法化しているんだと思うんです。たとえばいいメロディを作ってそこから始める人がいるのと同じように、まずは他にはないムードを思い描くことができて、それを創作のベースにしている。それがceroのスタイルなのかなと。

高城:そうかもしれませんね。ここ最近のシングルでいうと、「健忘者たち」(2025年)も「Globster」(2026年)も「ムードのなさをいかにムードとして語るか」みたいなことになっているんですよ。個人的にもそうなんですけど、惹かれるムードが思いつかなくて、そのスレッカラシな状態の曲にしているというか。

阿部:ムード切れというムードですね(笑)。

高城:そうそう(笑)。これだと思うムードは薄れつつあるんだけど、なぜか歌詞の文字数は増えて、むしろラップ化しているんですよ。自分たちでも不思議だなと思いながらやってるところがあります。

阿部:それはそれで面白いケミストリーが生まれそうですけどね。

高城:自分たちも自分たちでやろうとしている全貌が全然わかっていなくて。ceroは基本的にアルバム単位で考えているんですけど……。

阿部:いつもコンセプチュアルですよね。

高城:そう。少しずつ曲というテクストが集まってきて、その文脈によって一つのアルバムになっていくことが多かったんだけど、『e o』はそういう青写真もまったくなかったんです。文脈や全体像が見えないままやっていたんですけど、“3つの点が逆三角形に並んでいると人間の顔に見える”みたいな感じで、きっと受け取ってくれる人は何かを見つけてくれるだろうという信頼にかけて、とりあえずどんどん投げていって。そのうち自分たちも「これとこれ、つながってない?」みたいなアングルが見えてきたんですよね。そうやってオブセッションが加速して、なんとかアルバムになった。そういう意味では、緩い即興や連想ゲームのようなものがずっと続いていった結果なのかもしれないです。

阿部:『e o』の第一印象は、まさしく「捉えどころがない」だったんですよ。この印象は、ただ自分がわかってないだけっていう可能性もあったわけですけど、高城さんから創作過程をお聞きして、やはりそうだったのかと納得できたところがありました。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる