矢部太郎がひとり出版社「たろう社」で感じた葛藤と『光子ノート』刊行の裏側「前例がないから作りたい」

矢部太郎が語るひとり出版の葛藤

 芸人としてだけでなく、ベストセラー『大家さんと僕』をはじめとする漫画家として、また大河ドラマ『光る君へ』などの俳優としても活躍。いくつもの顔を持つ矢部太郎の肩書には、いま「社長」も加わっている。2025年10月にひとり出版社「たろう社」を設立し、絵本作家の父・やべみつのりが長女の成長を描いた38冊、およそ2000ページにのぼる絵日記ノートから厳選。約1000ページからなる『光子ノート』を同年12月に出版した。

 「たろう社」立ち上げから1年ほど経過した矢部に、これまでにも各所で語られている立ち上げまでの出版の経緯ではなく、価格決めや書店回りなど、ひとり出版社を経験して感じた葛藤や本音を聞いた。また多くの本を読んでいるイメージがある矢部に「本好き」として本の未来を訊ねると、本好きなわけではなく「好きな本は好き」と回答。真摯な姿勢が伝わってきた。

子ども時代に父と作っていた「たろう新聞」が社名の由来に

矢部太郎氏

――「たろう社」という社名は、矢部さんが子どもの頃にお父様と作っていた「たろう新聞」の発行名から取られたそうですね。「たろう新聞」は誰かに向けて作っていたのでしょうか?

矢部太郎(以下、矢部):特に誰かに向けて発信するというより、書くこと自体が楽しかった気がします。お母さんやお姉ちゃんには見せていたかな。あと、親戚にも送ったりしていました。三つ折りにして封筒に入れて。だから今、ダンボールに詰めて発送している感覚と、実はそんなに変わっていないのかもしれません(笑)。でも当時はなかった、作ったあとの大変さは感じます。

――1冊が約1000ページからなる厚い本ですし、場所も取ります。今日も、新たにお引越ししたオフィスで取材させていただいています。

矢部:本が完売して重版することにしました。いっぱい作らないと単価が高くなっちゃうから(苦笑)。それでたくさん作ることにしたら、部屋に収まらなくなって。物件を探していたら、友人経由で、すごく広くて家賃も今より安くなる物件があるという話が来たんです。映画『パラサイト』じゃないけど、半地下で(笑)。でも日当たりがいい半地下だと聞いて、来てみたら、確かにその通りでした。

――ご自宅とは別に新たな拠点が出来ましたね。

矢部:半地下も悪くないなと。集中できそうですし。ルサンチマンを抱えて、いいものが書けるんじゃないかなっていう気もしますし(笑)。僕がやっていることも、完全にアンダーグラウンドってわけじゃないですけど、半地下っぽいというか、ちょうどいいんじゃないかなって。畳の部屋なので、木のちゃぶ台を買いました。表面の色は好みじゃなかったので、削って木の感じをそのまま出しました。

――部屋に合っています。文筆家の部屋という感じです。

矢部:賃貸なのにいいと言われたので、結構直しちゃったんです。壁も自分で塗りました。今度、エアコンの掃除に入江(慎也)くんが来てくれます。発送は基本的には一人でやっていますが、大変なときは三瓶くんに頼んだりしています。

鈴木志郎康に、つげ義春も。オリジナル「光子ノート」にまつわる秘話

――矢部さんは、絵本作家のお父様を通じて、「人それぞれでいい」という価値観を知らずに受け取ってきたところがあるのかなと感じます。既存の出版社に断られてもゼロから会社を立ち上げた発想の土台には、そうした「常識にとらわれない」感覚もあるのかなと。

矢部:そうかもしれません。何しろお父さんのこのノートが、異常だから(笑)。最初に出版社に持ち込んで断られたのもある意味わかる、異常な物量と情熱。この長年の執念、狂気をそのまま商業出版の形に落とし込むのは、無理だし、そもそもそぐわないと思いました。だって誰にも見せずに書き続けていたんですから。僕が自分でやるのがふさわしいと思いましたし、それでこそアートという形で届けられるんじゃないかと。

――以前、『ぼくのお父さん』出版に合わせた本サイトの取材(2021年)で、オリジナルの「光子ノート」の存在を伺っていました。詩人の鈴木志郎康さんに見せたら「続けた方がいいよ」と言われた、というお話をされていました。その後も、鈴木さんには、ノートを見せる機会はあったのでしょうか。

矢部:志郎康さんには、ちょこちょこ見せていたみたいです。「日常の連続性があっていいよ」と言ってくださっていたようですね。特に奥様がすごく気に入ってくださっていたらしく、ご自分でコピーして製本した「光子ノート」という私家版があったんです。今年、志郎康さんのお宅が公開されたんですけど、イベントに行ったら、それも置いてくださっていました。ただ、その私家版も初期の方のものだったので、そこから先は誰にも見せずに書き続けていたんじゃないかと思います。あ、あと、漫画家のつげ義春さんにも見せたことがあると言っていました。

――つげ義春さんにも。

矢部:誰かの展示会場で、志郎康さんとつげさんと居合わせた時に見てもらったみたいです。

「1000ページで終わる」ことに込めた編集判断

――矢部さんが今回まとめられた『光子ノート』は、光子ちゃんが幼稚園に入ってから矢部さんが誕生するまでの期間、約1000ページを抜き出す形になっています。編集者として改めて読み返した時、どんな感覚がありましたか。

矢部:実はちゃんと通して読んだこと自体が、あまりなかったんです。今回読んでみて、お父さんがだんだん、光子ちゃんの見ている世界を通して世界を見ていくことで、お父さんが絵本作家になっていく過程そのものになっていると感じました。

――読者としても光子ちゃん自身が描いているかのように感じる瞬間がありました。一方で観察者としての視点もあって不思議な魅力があります。そして「過程」という表現は本当にその通りだなと。

矢部:最初はコマ割りもなく、ただ描いているという感じだったのが、だんだん1ページ2コマくらいのペースに落ち着いていくんですよね。社会とうまく折り合いがついていなかった父が、光子ちゃんが社会化されて開かれていくのに合わせて、自分自身も開かれていったんじゃないかなと。1000ページで区切ったのは、そのタイミングに合うと思って、狙った編集ではあります。

――明確に編集意図を持ったこの1000ページなんですね。

矢部:本としてこのぐらいの厚さが限界だと言われて、たまたまこのあたりになったというのが本当のところですけど(笑)。

紙での出版のみの『光子ノート』。デジタル版を選ばなかった理由

――ずっしりとした重みを感じる紙の本に仕上がりました。矢部さんご自身の著作ではデジタル版も出されていますが、『光子ノート』のデジタル化は考えなかったのでしょうか。

矢部:確かにそうですよね。自分も紙もデジタル本も買いますし。だけど全然考えていなかったんです。出来上がった見本を先輩に楽屋で渡したら、「デジタルで欲しかった」と言われました。「これを持って帰るのか」みたいに。その時に初めて、「あ、デジタルもあったな」と思ったくらいで(苦笑)。最初に相談したのがブックデザイナーの名久井直子さんで、「ノートみたいな装丁にしたい」という話をしていたこともあって、その一択でデジタルとかそういう話には全くならなかったんです。まさかこんなに分厚くなるとは思っていませんでしたし(笑)。

――この重さにも意味を感じます。

矢部:結果的に、物として美しくなったと思っています。デジタルも作った方が売れたでしょうけど(笑)。でも色の出し方とか、デジタルだとできないことではあったかなと思います。

「これだと無理だ」印刷後に気づいた定価設定の失敗

――作家としての活動はされていますが、「たろう社」で出版の工程そのものを一から経験してみて、驚いたことはありましたか?

矢部:まず、ISBNの取得です。1個だと2万円とかするのに、10個、20個とまとめて取得していくと単価がぐっと下がるんです。いっぱい出す人向けにできているんだなと。あとは、定価のつけ方が本当に難しくて。出版社が書店にいくらで卸しているかって、本来、内緒の情報なんです。最近はオープンにしているところもあるけれど、僕はそのあたりをよく知らないまま進めていて。いくらで売れば採算が取れるのか全然わかっていなかった。作っちゃって、定価も印刷された後になって、「これだと無理だ」とわかったんです。

――それで、取次を介さずご自身で発送する体制に?

矢部:そうなんです。最初からそうしたいと思っていたわけじゃなくて、そうせざるを得なくなったというか。配送料とか返本のこともありますし、出版の仕組みって、本屋さんに行くと「結構大変なんです」という話を本当によく聞きますね。

――定価決めも、矢部さん自身がされているんですよね。

矢部:全然分からなかったんですけど、やるしかないから。うちの場合は、マネージャーさんが原価率などをまとめたエクセルをくれていたんです。でも最初、見ないで作っちゃって、作った後に覗いてみたら、「あれ、全然合わないぞ」となって(苦笑)。周りの方に相談しながらやっています。

書店回りで見えた、独立系書店の広がり

――矢部さんは、『光子ノート』を持って、全国、かなり地方まで書店を回られています。気づいたことはありますか?

矢部:独立系の書店が、思っていた以上にたくさんあるんだなと感じました。昔ながらの街の本屋さんは減っている一方で、京都の恵文社さんのような、セレクトされた本を置く独立系の書店はすごく増えている。たぶん僕と同じで「本というものを大切にしたい」という気持ちの人がいっぱいいて、本屋さんをやるという形で関わって残しているんだと感じました。そういった人たちと会って、『光子ノート』を好きになってもらって、並べてもらっているのをすごく実感します。

――実際に足を運んでいるからこそ感じられることですね。

矢部:みなさん、「置いてもらえませんか」とお願いすると、「じゃあいいよ」と即決してくださったりするんです。「この街ならあの本屋さんも買ってくれるかもしれないよ」と紹介してくださったり。そうした横のつながりを実感します。

――文学フリマにも参加されていました。

矢部:お姉ちゃんにも同行してもらったことがあるんです。僕や後輩の芸人と一緒に売っていたのですが、お姉ちゃんが一番売り上げていました。

――やはり光子ちゃん本人だから引きが強いのでしょうか。

矢部:そういう人もいますが、全然知らない人にもちゃんと営業するんです。ただ通りかかった人は、本の分厚さにびっくりしながら素通りしていくことが多いんですけど、お姉ちゃんはしっかり本の中身を語って、「じゃあ1冊ください」とクロージングまで持っていくんです。あれはすごかったです。

「小さく始められる」今の環境、そして「好きな本は好き」という姿勢

――昨今は出版業界の厳しさも伝えられていますが、実際に体験してみて、矢部さん個人としては出版の今後についてどう感じますか?

矢部:うーん、全然わからないです。でもブックフェスや、ブックイベントに出展した時に聞いた印象的な言葉があって。AKASAKA BOOK STUDIOというイベントで大きな書店の店長さんが初めてそうしたイベントに関わられたみたいだったんですね。いろんな人の選書があったり、個性的な本屋さんが出店されてたりして、お客さんがたくさん来場されて、どんどん本を買われていて、それを見て「本って、売れるんだ」とおっしゃったんです。それが自分の中にすごく残っていて、フェスだと売れるみたいなちょっとさびしいかんじだったりもしたり。でも届ければ届くという希望で。それからも何回も僕自身も実感しています。熱心にお勧めしてくれる書店さんからまた再注文いただいた時や、ラジオなどで「光子ノート」についてお話しして、注文が届いたりした時に。「本って、売れるんだ」と思っています。

――たとえば、矢部さんは今回実際に書店回りなどをされていますが、ネットがここまで普及している今だからこそ「たろう社」をより広められた面もあるかと。

矢部:それはそうかもしれませんね。ネットがなかったら、どうやって宣伝したらいいかもわからなかっただろうし。SNSとかネットの媒体で取り上げていただいたりして、小さく始めても、それなりにやっていけるようにはなっている気がします。あと、ひとりでやれているのも、作業的なところはAIでシステムをつくれて、それでかなり助けられています。

――さきほど「本というものを大切にしたい」という言葉がありました。矢部さんはたくさん本を読まれていますし、本好きかと思います。改めて「本」という存在を残していきたい、残っていってほしいと感じていますか?

矢部:本って、読むのがめちゃめちゃ大変だと思うんです。特にこの『光子ノート』なんて。でも、僕は出す価値があると思ったから出した。今の本って、「こういう本が人気だからこういう本を作ろう」みたいな“類書”の発想で設計されているものもあると思うんです。僕はそこと全然違うところから作りたかった。「前例がないから」ということで断られましたが、それこそが僕がつくる理由だと思ったんです。「僕が面白いと思うものは、こういうものだ」というところから作りたかったんです。だから僕は、「本」という存在全般が面白いかというと、そこは正直、疑問もあります。なので「本好きか」と聞かれると、「好きな本は好き」です。好きじゃない本もたくさんあると思います。だけど「好きな本」が残るためには、出版業界そのものが維持されないと、とは思うんです。

――以前、「たろう社は、『光子ノート』を出したくて立ち上げたから、2冊目は分からない」とお話をされていました。約1年経って、2冊目についての考えはありますか?

矢部:たろう社としては、まだ全然考えていません。1冊目の『光子ノート』を重版していっぱい作っちゃったから、まずはそれをどうにかしないと(苦笑)。ただ、「光子ノート」原本からスキャンだけ終わっていて、今回の本には使っていない原稿があと1000ページ分くらい残っています。分厚すぎるということで今回は見送ったものなので、出すとしたらそれは使うかもしれません。

――お父様が描いた「たろうノート」も3冊あるそうですが、「光子ノート」「たろうノート」のほかにも今後、出版の可能性はありますか?

矢部:本を作ってこうして届けるということ自体は、やってみて面白いし、やりがいも感じています。だからもう少し余裕ができたら、また何か作るかもしれないですね。でも今は、これに時間をかけすぎて、他の仕事がだいぶ滞っていて、各方面にご迷惑をおかけしている状態で(苦笑)。だけどそれだけ時間をかけてもやれるものがあるというのは、すごくいいなと。父がやっていたよくわからないことを形にするうえでは、僕もよくわからないことをやらなきゃダメだなという、対抗意識みたいなところでやっているかもしれませんね。

■書誌情報
『光子ノート』
著者:やべ みつのり
価格:4,200円(+税)
発売日:2025年12月22日
出版社:たろう社
URL:https://www.tarousha.com/products-1/p/etpmdcyhmzlgsyrmpaf3je4sgcdbzr

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