書評家・渡辺祐真が「空海」にハマった理由とは? 「稀代の批評家であり、編集者の祖でもあった」


書評家の渡辺祐真氏による新刊『空海読んだら、人生変わった 思考をひろげる仏教入門』(大和書房)は、難解なイメージのある空海の仏教思想を、知識ゼロの目線からユーモラスかつ丁寧に紐解いた一冊だ。
もともと仏教とは縁遠かったという渡辺氏だが、とあるきっかけで空海の教えに触れたことで、思考のフレームをまるごと変えられてしまうほどの衝撃を受けたのだという。平安時代初頭、疫病の流行や政治の混乱、天変地異に揺れるなかで「いかに人々を救うか」に向き合い続けた空海の教えは、混迷を極める現代社会や、私たちが抱える日常のしんどさにも通じる実践的な知恵に満ちているそうだ。
『空海読んだら、人生変わった』では、「即身成仏」の捉え方からアンガーマネジメントにも効く瞑想法、インド由来の論理的思考法「レンマ」まで、現代生活に活かせる視点として捉え直している。自身も精神の変化を実感しているという渡辺氏に、空海の教えの凄みから、混沌とした現代を生き抜くためのヒントまで詳しく語ってもらった。
生来の短気もかなり緩和されました

渡辺祐真(以下、渡辺):空海が活躍した平安時代の初頭は、かなり混沌としていました。諸国で疫病、つまり感染症がたびたび流行していたし、空海が生まれた年から始まった朝廷と東北・蝦夷との戦争は38年も続き、桓武天皇の死後は政治的な対立が続いて、政もまったく落ち着かなかった。さらに富士山も噴火し、天変地異も起きている。現代の僕たちとも通じる絶望的な状況が次々と押し寄せるなか、どうすれば民を救えるのか、為政者も民間人も含めたすべての人間、果ては動物や植物といったすべての命を救うためにどうすればいいか、本気で向き合い続けたのが空海だったんだということを、僕も調べはじめて知ったんです。
――そのための教えが「即身成仏」。「この身体のまま、即座に仏に成れる」という意味なのだと、本書でも最初に書かれていますね。
渡辺:でも、そんなことを言われても、仏教になじみのない人はどういうことだか、わかりませんよね。僕自身、最初は全然理解できなくて。去年、批評家の安藤礼二さんがその思想に迫る『空海』という本を刊行されたので、空海を学ぶ第一歩として読んでみたのですが、最初の一行から「即身成仏義」と「声字実相義」といった専門用語の嵐に、つまずいてばかりでした。もっと平易な空海入門的な本といったりきたりしながら、どうにか『空海』を読み終え、「空海というのは、批評家だったんだな」「ただの天才ではなく、ビジネスパーソンとしても優秀だったんだ」と、なんとなくイメージしていたのとは異なる側面が浮き彫りになってきたのですが、それでもやっぱり理解しきれないことが多々ありました。仏教がベースの思想であるがゆえに「なぜならそれが大日如来の教えだから」「みんなのなかにも仏がいるから」といった前提が、そもそも僕には腑に落ちなかったんですよ。
――たしかに。自分のなかに仏がいるってどういうこと? ってなりますよね。
渡辺:そう。そこからどうすれば心が軽くなるのか、その思想を知ってどうすればいいのかまでが、僕には全然わからなかったんです。解説書の類を読んでも、そのへんは曖昧で、たとえば安藤さんは誠実な書き手だから、空海の言葉を勝手にパラフレーズしたり個人的な解釈で深掘りしようとはしない。他の空海本の書き手の多くは仏教にゆかりの深い方だから、前提を共有してらっしゃるため、信仰の根幹部分まではなかなかしてくれない。裏を返せば、仏教のことを何も知らない僕のような人も腹落ちするような解説を書くことができたら、もっと広く、その思想を共有できるんじゃないかと思ったんです。
――だから本書の構成も、まずは「即身成仏とはなにか」を解説し、空海の生涯をたどることでその人柄に興味を惹きつけたあと、「空海流の正しい瞑想法」という私たちにも身近な実践を置くことで、理解しやすい構成になっているんですね。
渡辺:そうなんです。本にも書いたことですが、即身成仏というのは要するに「仏スケールで世界を見ろ」ということで、そのために身体・言葉・考え方(身・口・意)を仏レベルの三密にまで磨きあげなくちゃいけない。仏スケールの身体を手に入れるために必要な実践が、ヨーガと呼ばれるものなんですね。瞑想によって仏様の存在をきちんと感じられるようになりなさい、というのが、簡単に言えば仏教的な修行なわけですが、副交感神経優位の身体を手に入れることによって、五感が鋭敏になるという効用がある。その結果、僕は仏様を感じられなくてもいいけど、今日も風が気持ちいいとか、飯がうまいとか、日々の幸せをキャッチできるようになる。実際、この本を書いているころから瞑想を習慣づけているんですが、生来の短気もかなり緩和されました。
――それは、どうして。
渡辺:端的に言えば、出来事や人の気持ちというのは、自分で完全に制御はできない、と心から納得できたからですね。仏教においては、個人が見通せる時間幅に限定せず、数万年、数十億年といった長大な時間の流れで物事を観ようと心がけるのですが、そこまで視座を広げれば僕らの一生なんて瞬く間に消え去る程度のもの。本当にちっぽけな存在なのだと瞑想によってとらえられるようになったんです。気の短さがかつて10段階のマックスだったとすると、今は6か7くらいには抑えられています。仏教を学ぶ前は、このままの調子で歳を重ねるとキレる暴走老人になってしまうと危惧するくらい、イライラしやすくなっていたので、これはありがたかった。アンガーマネジメントの本を読んでも効果がなかった、という人にも瞑想はおすすめです。あと、サウナ好きの人にも。
――サウナ?
渡辺:医師の加藤容崇さんによる『医者が教えるサウナの教科書』という本を読んだら「サウナに入った後の心身の状態は瞑想した後の状態と近い」と書いてあったんです。最近は、意識的にサウナに行くようにしているんですけど、「整う」といわれる状態に、仏教で得た知見がくわわることで相乗効果があるのを感じています。たぶん、ただサウナに行っただけなら、汗をかいてすっきりして終わり。続けようとは思わなかったんじゃないかな。そこで得た感覚を瞑想にフィードバックすると、より五感が鋭敏になるところもあって……。瞑想というのは本来「仏さまがいらっしゃる寺などの場所でやらせていただく」という客体的な行為なのですが、僕は主体的にサウナや瞑想をすることで「鋭敏になった五感をどう正しく使わせていただくか」みたいな感覚を得られたのも、けっこうよかったな、と思います。謙虚さをまとえるようになったといいますか。
――怒りの感情も、五感を使わせていただく、という感覚があると、たしかに抑えられる気はしますね。
渡辺:そうですね。サウナブームがきたということは、みんな無意識にその感覚を求めているということで、瞑想ももっと受け入れられると思っています。あと、空海が信奉している密教は、読んで字のごとく仏教のなかでも秘密にされてきたもの。もともとは「師匠から弟子にこっそり教える」ことでしか伝承されてこなかったんです。そうなると、おそらくすべての弟子にむけて一律で同じ教えを伝授するのではなく、相手にあわせて指導を変えていたと思います。人の悩みというのは千差万別だから、誰かにとって役に立つ教えも、自分にとってはそうでないこともある。そうではなく、誰もが自分自身に添う教えを体得できるように、空海は生涯をかけて向き合い続けたんじゃないかと思うんですよね。
――だから、現代の私たちにも、必要となる可能性が高い。
渡辺:そうですね。バブル期にはマンガ『孔雀王』や雑誌『ムー』をはじめとする密教・空海ブームが起きたときは、どちらかというとオカルトチックな扱いで、梵字がカッコいいとか、エンタメとして消費されていた。でも、今の僕たちだからこそ空海から受けとれるものがあるはずだし、千年以上も受け継がれてきた教えにはきっと読み解く意義はあるはずだというのが、今作で意識したことです。
空海が言っていたあれもこれも、全部レンマだった

――難易度はかなりあがりますが「思考を拡張する最強ロジック「レンマ」を手に入れよ」の章もおもしろく、実践する人が増える気がしました。
渡辺:レンマ(四句分別)はインドに由来する独特な思考法で、物事を「Aである」と「Aではない」だけでなく「Aである、かつ、Aではない」と「Aではないし、『Aではない』でもない」も許容するという思考法ですね。たとえば実家が好きかという問いにたとえると、好きか好きじゃないかだけでなく「好きだけど、好きじゃないところもある」や「好きではないけど、そうでもないこともある」という状態もよしとするという。
――それをさらに、ご自身が幸せなのは誰のおかげ?という問いをたて「私のおかげ」「妻のおかげ」「私と妻のおかげ」「私のおかげでも妻のおかげでもない→でも二人がいるから幸せにやれている持ちつ持たれつの関係」という思考に発展させる例はとてもわかりやすく、ハッとした人も多いんじゃないでしょうか。
渡辺:空海について書くならば、彼がもっとも敬愛したインドの思想家・龍樹(ナーガールジュナ)を避けては通れない。その龍樹はレンマを駆使しまくった人物ですから、龍樹を理解するためにはレンマを避けて通れなかったんですよね。ただ、AでもなければBでもない、みたいな煙に巻かれたような曖昧さって東洋思想にはありがちで、明文化できないことを神秘みたいに片づけてしまう。だからいつまでたっても誰にも理解されないし、僕自身も怪しいなと思っていた。そんなときに手にしたのが、西洋哲学の研究者・清水高志さんによる『空の時代の『中論』について』でした。清水さんは「東洋哲学をどうすれば我々が馴染んでいる西洋の論理や理論にパラフレーズできるか」を実践していて、どうやら東洋哲学を論理で捕まえられるらしいと分かった。だったらやっぱり僕もそこから逃げるわけにはいかないと思ったのですが、もう本当に難解で……半年くらい、頭を抱えていました。仏教僧であり宗教学者でもある釈 徹宗さんとお話したとき「僕もレンマについては頭が煮えそうになりました」とおっしゃっていて、釈先生でもそうなら僕の理解が追いつかないのは当然なんですが(笑)。
――突破口はどこにあったのでしょう。
渡辺:『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)の著者であるしんめいPさんとお話しさせてもらったときですね。しんめいさんと清水高志さんの対談動画がおもしろかったから、レンマについて教えてほしいとDMを送ったんです。いろいろお話を聞いた結果、「レンマというのはあらゆるしがらみや苦悩から逃れ、執着を手放していくための必殺技なんだ」ということがわかった。先ほどの夫婦の話でいうと、たしかに、夫が悪いとか妻が悪いとか、二人とも悪くないとか、その思考整理そのものもレンマなんだけど、そんな話をしているうちはだめで、すべて手放してただ夫婦げんかをしていた、それだけのことなのだという境地にたどりついて初めて成功なんだということもわかりました。レンマというのは、そのための梯子でしかないのだとしんめいさんに言われたことで、扉が開いたと言いますか……「空海が言っていたあれもこれも、全部レンマだった」と理解が一気に進みました。
――その理解の段階を、丁寧に導いてくれる本なので、読者はめちゃくちゃラッキーだと思います。これがほんの少しでも実践できることで、日常の苦しさがちょっと和らぐんじゃないのかな、と。
渡辺:ありがとうございます。どんな教えも、それがどう役に立つのか、どう活かせるのかがわからないと、人に伝えることはできない。でも、だからこそ伝える意義があるんだということは、恩人である安田登さんが大事にされていることでもあります。仏教の専門家ではない僕だからこそ、より実践的な解説をして、日常に教えを溶け込ませる伝え方をすることに意味があると思いながら書いていました。そのうえで、仏教とはなんなのか、みなさんがほんの少しでも理解してくれたら、成功かなと。仏教では、末那識と阿頼耶識という、簡単にいえば自意識と記憶みたいなものがあるとして語られるんですが、五感と違って知覚も意識もできないその領域が「ある」といわれても「本当に?」って感じじゃないですか。でも、自分の中に仏がいる、といわれて「どこに?」と思い続けていたら話が進まないように、それは「あるもの」として扱わなくてはいけないんだ、それでいいんだ、と思えるまでが長かったですね。
空海は稀代の批評家であり、編集者の祖でもあった

渡辺:そう。その前提に立って物事を進めたときに、うまくいくことがある。それでいいんだと思うんです。会社も、一族経営なのか上場してるのかによって、風土がまるで変わってくるじゃないですか。同じ会社でも根っこのルールが違うだけで変わってしまうものがある。でもその根っこの部分は、それで経営陣がうまく会社をまわしてくれているのなら、社員が触れる必要のないところでもありますよね。仏さまも同じで、見えないところで何かをしてくださっているのは確かだけど、ふだん顔を見せることはなく、その実在を四六時中、確認する必要はない。ただ実在するという前提のうえで理屈を重ねて「なるほど」と納得できるなら、それでいいんじゃないかという結論にたどりつきました。僕もいまだに末那識・阿頼耶識のことはよくわからないけれど、そこから積み上げられた教えを実践できているなら、それでいい。そう言えるようになるまでに、ずいぶん時間がかかりました。
――それは、渡辺さん自身が批評家であることも大きい気がしますね。本の一節を引用して、構造を解説して、そこから何を受けとれるかを提示するときに「その作家がなぜこの世界観を作ったのか」をすべて理解する必要はないじゃないですか。そこにあるものとして受けとって、自分に生かす。その回路を導けたのは、渡辺さんだからこそなのだなと。
渡辺:ありがとうございます。空海自身が編集者のような人だったんじゃないかと安藤さんが書かれていて。僕も同感なんですよね。空海の本を読むと、実は独自の文章というのが少なく、膨大な引用で成っているのですが、その視点が独特なんですよ。「これの次にこれを引用するんだ」「これとこれを組み合わせるんだ」ということのオンパレードで。インターネットやデータベースのない時代に、よくぞここまで記憶し、あらゆるところから引用することができたな、とぞっとしてしまうほど。その知識量と記憶をもって体系立てていく編集者としての能力にこそ彼の天才性があるし、先行する仏教の教えを巧みに組み合わせて信徒たちを沸かせる彼は、優れたDJみたいだなとも思います。
――具体的にどこにそれを感じたか、覚えていらっしゃいますか。
渡辺:いちばんよく現れているのが「文筆眼心抄」という漢文漢詩の理論書ですね。今でも中国では漢文漢詩の入門書として使われているぐらい完成度の高いものなのですが、「ゼロからものを生み出す明確なクリエイティビティではないけれど、組み合わせ、引用し、並べかえることだけで、これほどの創造性を備えることができるのだ」ということに僕は心をつかまれました。僕らみたいな評論家も、同じですからね。そういう意味で空海は稀代の批評家であり、編集者の祖でもあったといえる。そういうところにも、憧れました。
――本作を、どんな人たちに読んでほしいですか。
渡辺:まずは、仏教や空海のことを何も知らない、興味がないという方に読んでほしいですね。でもちょっと気になる、という人のために、用語集をつけたり動画の解説への動線をしいたり、理解を助けるためにできる工夫は全部入れたつもりです。あとは、たとえばヨーロッパ哲学や日本文学といった、東洋思想からは少しずれたところに興味がある人でしょうか。僕がもともと日本文学や西洋哲学を学んできた人間なので、そのロジックに紐づいた言葉で書いているつもりなんですよ。「東洋思想って、すぐに神秘とかいって誤魔化すよな」とか「日本文学は好きだけど、仏教は別にいいかな」みたいな人が読むと、また新しい扉が開くんじゃないでしょうか。そもそも日本文化の柱の大きなところに仏教があるのに、意外と学ぶ機会が少ないんですよね。
――なんとなく、宗教は別枠、みたいな感じでとらえられていますよね。
渡辺:そうなんです。西暦で6世紀くらいに仏教が日本に入ってきたと言われていて、聖徳太子が『三経義疏』という、仏教における三つの経典に注釈をつけた本を書いていて、中国における仏教の歴史や伝統を踏まえたうえでの解説書が今でも現存しているんですね。そのバトンを引き継いだなかに空海のような人がいて、それまでの思想を十段階に分けて比較するなど、見事な哲学体系をつくりあげているんですよね。もちろんそのあとにも、慈円『愚管抄』のような歴史書、時間論や存在論の大著である道元『正法眼蔵』といった、壮大な書物が仏教徒によって書かれます。よく西洋に比べて日本の思想や文学は体系立てるのが苦手、と言われがちなのですが、単に仏教の側面を見落とし続けているだけなので、仏教史を辿っていくことで、これまで見えていなかった日本文化の歴史が見えてくるはずだと僕は思っています。だから、西洋哲学や日本文化を学んだ人たちにこそ触れてほしいんです。そして最後に、やっぱり、単純に日々がしんどいという人たち。
――最初にお話にあった、空海の思想を必要としている人たちですね。
渡辺:ただ危険もあって、本当に自分をからっぽだと感じている、生きている意味を見つけられないところまで追いつめられている人たちに「すべては空、からっぽなのだ」という思想を渡したら、さらに追い打ちをかけてしまうかもしれない。だから「すべての人に」とはとても言えないのですが、会社がだるいとか、人間関係がうまくいかないとか、明日生きるか死ぬかのレベルではないけれど、ぼんやりとした不安を抱えていて、これまでの方法ではちょっと解決しないかもなと感じている人に、新しい薬として仏教と空海が届いてくれたらいいなと思っています。

■書誌情報
『空海読んだら、人生変わった 思考をひろげる仏教入門』
著者:渡辺祐真
価格:1,980円
発売日:2026年7月8日
出版社:大和書房
























