横尾忠則が会社員時代に起こした“事件”とは? 天国と地獄の間を往復する、激動の人生

横尾忠則の自伝はなぜ3回も復刊するのか

 横尾忠則とは何者か。1960年代から1970年代にかけての、モダニズムが主流のデザイン界にあって、あえて前近代的(土着的)なイメージを前面に押し出して、一世を風靡したグラフィックデザイナー。そして、「画家」に転身した1980年代以降も、精力的に夢と現(うつつ)が入り混じる不思議な世界を描き続けている稀代のマルチ・アーティストである(1936年生まれ)。

 そのジャンル横断的な創作活動は、平面作品(ペインティング、版画、CG、コラージュ、イラストレーションなど)の制作にとどまらず、演技、歌唱から、立体造形、建築物のデザインにいたるまで、実に多岐にわたっている。

 また、味わい深い独特な文章の書き手としてもよく知られており、これまでにも、エッセイ集、日記、対談集、小説集など、数多くの書籍を刊行している(小説集『ぶるうらんど』では、2008年、泉鏡花文学賞を受賞)。

 そんな横尾忠則が書いたすこぶる面白い「自伝」が、先ごろ春陽堂書店より刊行された。

「未完」の自伝は何度でも甦る

 タイトルは、『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ 横尾忠則自伝』。実はこの本、文芸春秋から1995年に刊行された『横尾忠則自伝』の3度目の復刊なのだが(いずれも内容はほぼ同じだが、復刊のたびにメインタイトルが改題されているため[※]、過去の本を持っている方はご注意を)、“現役のアーティストの自伝”が、こうした形で、時代を超えて何度も甦るというのは、かなり珍しいケースだといえるのではないだろうか。

※1995年に刊行された親本の正式タイトルは、『横尾忠則自伝―「私」という物語 一九六〇-一九八四』(文芸春秋)。その後、文春文庫から『波乱へ!!―横尾忠則自伝』(1998年)、ちくま文庫から『ぼくなりの遊び方、行き方―横尾忠則自伝』(2015年)というタイトルで文庫化された。また、今回の復刊(『未完で生まれて、未完で生きて、未完で死ぬ』)は、ちくま文庫版を底本としている。

 ちなみに、「自伝」とはいえ、書かれている内容は、1960年から1984年にかけての出来事――つまり、著者の長い人生から見れば、限られた一部を切り取ったものにすぎない。それゆえ本書は、〈つづく〉という文言で幕を閉じることになるのだが、その約25年のあいだの、「横尾忠則の人生」のなんと濃密でスリリングなことか(なお、1960年より「前」の時代――すなわち、著者の少年時代のエピソードについては、『コブナ少年―十代の物語』という本にまとめられている)。

天国と地獄の間の往復運動

 たとえば、フリーのデザイナーとして独立する前――日本デザインセンターに所属していた若き日の横尾は、あるとき、クライアントである「朝日麦酒」の宣伝課長の頭を、思い切り写真のパネルで殴打してしまう。宣伝課長の「ふとした言葉」が、彼の「自尊心を傷つけ」てしまったからだ。

 会社勤めの身でありながら、取り返しのつかないことをしてしまった横尾は、後日、上司とともに朝日麦酒の本社へ謝罪に行く。すると、くだんの宣伝課長が現れて、開口一番、「横尾ちゃんサー、俺が悪かったよ、謝るネ」

 以後、朝日麦酒から、横尾にかなり重要な仕事が任されるようになったのだという。

 このように、彼の人生は、「いつも天国と地獄の間で往復運動が繰り返され」ており、そうしたエピソードの数々が、いずれも、捧腹絶倒の娯楽小説を読んでいるかのような面白さを醸し出している。

作家、画家、俳優、ミュージシャン……華麗なるスターたちとの交流

 驚くべきは、本書に登場する人々の多種多様さである。高倉健、浅丘ルリ子という、横尾にとっての「2大アイドル」をはじめ、三島由紀夫、寺山修司、宇野亜喜良、和田誠、澁澤龍彥、唐十郎、美輪明宏、瀬戸内寂聴、細野晴臣、カルロス・サンタナ、リサ・ライオンら、カリスマたちとの運命的な出会い(とコラボレーション)。

 大島渚監督の『新宿泥棒日記』では主演を務め、伝説の「ファクトリー」にてアンディ・ウォーホルとひとときを過ごす。サルバドール・ダリからは、「わしは君の作品は嫌いだね」といわれ(!)、その妻・ガラからは、「私と寝ない?」といわれる。文豪・ヘンリー・ミラーとは、卓球を楽しむ。

 さらには、ジョンとヨーコが「ベッドイン」している傍で一緒に夕食を取り、「シバレン」こと柴田錬三郎とは、1年間同じホテルにカンヅメになって、前代未聞の時代小説『うろつき夜太』を「共作」する。

 いや、なんというか、こうして本書に出てくる著名人の名をいちいち挙げていっても、実はキリがないのである。要は、1960年代半ばから1980年代初頭にかけての、世界の名だたるクリエイターたちが、なぜかことごとく横尾忠則に引き寄せられていた、というほかないのだ。そしてそんな、“人生と芸術”を切り離すことのない彼らが起こしたケミストリーが、そのまま当時の文化全体を活性化させていたのは間違いないだろう。

1960年代以降の日本を面白くしたひと

 なかでも、三島由紀夫は、横尾にとって、兄貴分というか、メンターというか、とにかく頼れる存在だった(三島由紀夫もまた、メジャー・マイナー問わず、さまざまなジャンルを横断して、独自の世界を作り上げたクリエイターのひとりだった)。そんな三島を、横尾はたびたび雑誌の挿絵などでカリカチュアライズ(戯画化)して描いて怒らせた、というのだから面白い。

 ちなみにその三島由紀夫は、澁澤龍彥の『快楽主義の哲学』(光文社カッパ・ブックス)の推薦文の末尾で、こんなことを書いている。「この人(=澁澤龍彥)がいなかったら、日本はどんなに淋しい国になるだろう」

 それとまったく同じことが、横尾忠則についてもいえるのではないだろうか。そう、『未完で生まれて、未完で生きて、未完で死ぬ』という本は、「横尾忠則がいなかったら、日本はどんなに淋しい国になるだろう」と心底思える一冊であり、あなたがもし、美術館や書店、劇場などに足を運ぶことが好きな人なら、読めば必ず元気をもらえる一冊である。

■書誌情報
『未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ 横尾忠則自伝』
著者:横尾忠則

価格:2,860円(税込)

発売日:2026年6月27日

出版社:春陽堂書店

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