佐藤 究、三島由紀夫に挑んだ新作長編『幽玄F』を語る 「重視したのは、死の享楽や美を持たせないこと」
『テスカトリポカ』(2021年)で第34回山本周五郎賞と第165回直木三十五賞を受賞した佐藤究の待望の新作長編『幽玄F』が、10月20日に河出書房新社より刊行された。航空宇宙自衛隊員の戦闘機パイロットを主人公としたエンターテインメントでありつつ、日本文学史に名を残す大作家・三島由紀夫を強く意識した内容になっている。三島由紀夫×『トップガン』ともいわれる本作は、どのように生まれたのだろうか。(円堂都司昭/10月4日取材・構成)
「三島をテーマにお願いします」といわれて、即座に断りました
――『幽玄F』は「文藝」2023年夏号に一挙掲載後の単行本化ですが、基本的にエンタメ小説を対象にした直木賞の受賞第一作が、純文学の雑誌に載ったのは初めてらしい。でも、本作は5年前から構想があったそうですから、スタートは『テスカトリポカ』(KADOKAWA)以前となりますか。
佐藤:2018年に、河出書房新社「文藝」現編集長の坂上陽子さんにつかまったんです(笑)。坂上さんは装丁家の川名潤さんから、僕の『Ank: a mirroring ape』(2017年。第20回大藪春彦賞、第39回吉川英治文学新人賞受賞。講談社)をすすめられて、この作家と仕事をしたいと思ってくれたそうで。『Ank』の装幀を手がけてもらったのが川名さんでした。僕の再デビュー作『QJKJQ』(2016年。第62回江戸川乱歩賞受賞。講談社)の装幀も川名さんにやってもらっています。
――私は乱歩賞の予選委員だった時に『QJKJQ』の応募原稿を読みましたし、佐藤さんが2004年に『サージウスの死神』で第47回群像新人文学賞優秀作となり、純文学でデビュー(佐藤憲胤名義)したのも知っていました。でも、その後に京都の大暴動と謎のチンパンジーを描いた『Ank』、メキシコと日本にまたがるクライムノベルにアステカ神話の要素を融合した『テスカトリポカ』のような強烈な作品を書いて躍進するとは予想できず、参りましたという感じです。
佐藤:『QJKJQ』の次に『Ank』を持っていった際の講談社さんも、「正直、女子高生が世界と戦うパート2がくるかと思った」という反応でしたから(笑)。『QJKJQ』の時は、「純文学からエンタメへの華麗な転身」というコピーを僕につけようという案が編集者から出たんですが、それは前歴で活躍した人の場合だけだからやめてくれといったんです(笑)。僕は自分から純文学を書かないと言ったこともないですし、単純に仕事がなかった。いわゆる事実上の戦力外通告、アメリカの格闘技団体UFCでいう「リリース」をされたようなものだったんですよ(笑)。それで、「文藝」の編集長に内定していた坂上さんが、気になる書き手に声をかけていた頃、僕にも話がきた。坂上さんと、昔ながらの文芸編集者という印象の上司の阿部晴政さんにお会いして、「どういうものがお好きですか」と聞かれた時、つい口を滑らせて、三島由紀夫『太陽と鉄』の戦闘機搭乗体験記「エピロオグ――F104」について語ってしまったんです。僕が好きなアメリカやイングランドの小説にはロックに通じるアッパーな雰囲気があって、逆に日本文学は基本的にいかに落ちていくかというダウナーの美学。でも、「F104」は明らかにアッパーそのもので、というか、そもそも超音速飛行の実体験が書かれていますから(笑)。そう話したら「三島をテーマにお願いします」といわれて、即座に断りました。せっかく純文学からエンタメへ移って仕事も来るようになったのに、僕自身もファンである三島さんにわざわざ挑んで失敗したら、目も当てられない。それ以前に勝ち目がない(笑)。
小説のイメージはなにも見えてこないままだったんですが、河出書房新社が三島さんの没後50年にあたる2020年に、『三島由紀夫1970 海を二つに割るように、彼は逝った』というムックを作って、僕は阿部さんにエッセイを頼まれたので、「死に向かってビルドアップされてゆく肉体」という文章を寄稿したんです。すると阿部さんの反応がよかった。三島さんについて自分が書くならこういう方向かな、という手応えを感じつつ、「エッセイを書いたから小説はもういいじゃないか」という思いもありましたね(笑)。これで勘弁してくれ、と。だけど、編集者たちは逃がしてくれない。困ったな、と思っているうちに、そのエッセイを読んだ朝日新聞の記者から、三島さんの生涯と作品をテーマにモーリス・ベジャールが演出したバレエ「M」のレポートを書いてほしいと依頼されて、上野で舞台を観ました。そこにはザ・ミシマという要素が全部入っていた。そうなると、似たようなことを僕が書いても意味がない。逆に別のアプローチでなにができるかを考えて、自分にとっての原点「F104」に戻ったんです。実は「F104」の初出は「文藝」で、そのデータを見せてもらった時には背中を押される感覚がありました。
――「F104」には高高度に達した戦闘機における超音速でのG(重力加速度)の体験が記されていて、『幽玄F』はその超音速でのGを核にして物語が書かれている。「F104」が掲載された「文藝」1968年2月号の目次を今見ると、大江健三郎、寂聴になる前の瀬戸内晴美の小説や、石原慎太郎のエッセイもあって錚々たる顔ぶれですね。佐藤:そのトップに載ったのが、三島さん。『幽玄F』のように戦闘機について延々と書いた話が「文藝」巻頭に掲載されるのは、「F104」以来かもしれない。リニューアル後の「文藝」は「韓国・フェミニズム・日本」特集で話題になったわけで、魅力的な新人も次々と輩出しています。だから『幽玄F』を巻頭一挙掲載する方針を聞いたときには、疑念しか感じなかった(笑)。ホモソーシャルかつ右翼的なイメージのみで語られがちな三島さんをモチーフにした作品のニーズはあるのか、自分から志願した企画でもないのにブーイングを浴びるのも嫌だなっていう(笑)。ですが坂上編集長としては、枠にとらわれない方針だそうで、それにかつて『仮面の告白』を担当した坂本一亀さん(坂本龍一の父)が、「文藝」元編集長だったという、三島さんにまつわる縁もあった。
――「三島由紀夫の亡霊を斬ってください」と依頼されたそうですね。
佐藤:実はその話はあまりしないようにしているんですよ。角が立つじゃないですか(笑)。三島文学のファンとしては聞きたくない言葉ですし、たとえば新日本プロレスの所属レスラーがアントニオ猪木の亡霊を斬ってくださいと誰かにいわれるなら、過去に自分の団体のボスだったんだからそれは理解できる。でも、僕にはそういう三島さんとの関わりはまったくないわけで、とはいえ文学における三島さんの存在の大きさというのはわかります。しかし編集者と話しこんでも、なにをどう書けばいいのかさっぱり見えてこない。それでいろんな人たちにも相談して、「そんな依頼があるのか」とある編集者に感動されたり、ある先輩作家の方とは「そもそもご本人が自決されて首を落とされているし……」という話になったり。
――三島は「F104」発表の2年後、1970年11月25日に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかける事件を起こし、割腹自殺をしましたからね。
佐藤:新潮社の中瀬ゆかりさんは、僕が巻き込まれた依頼に大変興味を持って「あなたは適任だと思う」とおっしゃってくださり、三島さんの遺稿となった『天人五衰』(『豊饒の海』四部作の最後の作品)を受けとった編集者・小島千加子さんを紹介してくれました。もうご高齢でしたけど、三島さん本人と会って担当した方に話を聞くことができた。そうなると、いよいよ小説を書かないわけにはいかなくなって、今思えばあの取材で退路を断たれたんです。
――佐藤さんは、三島由紀夫とどのように出会ったんですか。
佐藤:中学生の頃、仲間たちでビートルズを好きになって追いかけるうちに、横尾忠則のポスターや寺山修司とか1960年代のカルチャーに触れた。横尾さんが三島さんを礼讃していたから「なんだ、この人は」というのが最初。川端康成、太宰治、夏目漱石などは、ザ・文豪という感じで本好きに読まれるけど、三島さんはそこからはみ出す面白さがある。あんな風に横尾さんのアートになったりする作家は、そういないでしょう(笑)。よくわからないまま作品を読んでいて、2度目の出会いが短編集『ラディゲの死』の「旅の墓碑銘」。世界中を回った主人公が結局、アジアの混沌を発見する内容で、僕らの若い頃はバックパッカーの第1次ブームでしたが、それを読んでどこかへ旅立たなければならないという強迫観念が外れたところがありました。
――『幽玄F』は「F104」以外にも、主人公のパイロットの名が易永透で『天人五衰』の安永透を思わせ、易永の友人が『金閣寺』の主人公の姓を借りて溝口とされているなど、三島から様々な要素がとり入れられています。特に意識したのは、どの作品ですか。
佐藤:「F104」以外だと、『暁の寺』と『天人五衰』ですかね。『暁の寺』にはタイが出てきて蛇のエピソードもある。『天人五衰』については、三島さんの最後の小説になりましたが、それでよかったのか、もしかしたら順番が逆で「F104」こそ、『天人五衰』の後にくるべき話だったのではないか、そういう仮説を立てつつ読み直しました。僕が親しくさせていただいた詩人の河村悟さんは、1948年生まれで、学生時代は全共闘として活動していたのですが、そんな自分たちにとっても三島はやはりスターだったといっていて、その河村悟さんに、空の上で蛇を見てから三島は変わった、と聞いたことがあるんです。それは「F104」で、搭乗中に三島さんが見た巨大な蛇の環のことをさしている。僕としては「F104」を念頭に置いて、『暁の寺』、『天人五衰』を意識しつつ、『金閣寺』のような一人称で書けば枚数も抑えられると思ったんですが、この小説でそれをやると『金閣寺』の劣化コピーになりかねないので、一人称は避けました。
――「F104」の最後に「イカロス」と題された詩が書かれています。イカロスとは、高く飛んだものの、翼を体に着けていた蝋が太陽の熱で溶け、落下して死んだギリシャ神話の登場人物ですね。詩を読み返すと、死の予感という意味で暗示的に思える。
佐藤:三島さんには『葉隠入門』もあるでしょう。『葉隠』というとメディアでは「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」のフレーズばかり話題にされますが、あれは侍のための生き方指南なのに、一般市民にまで適用した風になっている。三島さんがその要因を作った面もあると思います。極端な思想とか、あるいは陰謀論って、いったんそのなかに入ると正しいように見えてしまうんです。『幽玄F』の場合、作品の根幹を「武士道といふは~」に置くとしたら、ただのファンアートになるだけで、編集者の依頼に応えたことにはならない。どうしたらいいか、ここはかなり考えさせられました。三島さん自身は芸術と行動を分けていて、とにかく生きるのが芸術だといっていた。ただ、その考えは『金閣寺』ですでに書かれている。そうすると三島さんと対峙するうえで、やはり1970年11月25日の行動にフォーカスする必要が出てきます。
戦闘機の資料を読み漁りながら、唐木順三の『無常』を読んだんです。この本には室町時代の僧、心敬のことが書いてある。心敬は仏道と連歌道の分裂に悩んだ人で、よい歌を詠もうとするのはいわば創作者の欲ですけど、仏道は欲を消すことだから、両者は真逆の道なんですね。それは、三島さんのなかでの芸術と行動の引き裂かれ方に似ている。乱世に生きた心敬の「ふるまひをやさしく。幽玄に心をとめよ」という言葉を、あまりにも荒々しいものに憑かれていた三島さんの「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」にぶつけてみるのはどうだろう、と考えたんです。
『幽玄F』の主人公の最期は、三島さんの最期と重なるところはありますが、僕が重視したのは、死の享楽や美を持たせないこと。ギリギリのところで、三島さんとすれ違うようにしました。この小説の初稿はもっと三島さんの世界にとりこまれていて、前半の仏教というか、お寺のシーンも『金閣寺』みたいに長かったんですが、「とり憑かれすぎです」と編集長にいわれて、自分でも全体のバランスを考えて思い切って短くしています。
僕らは純文学もエンタメもないという体で話したりするんですが(笑)、書く側としてやっぱり違いはありますよね。文体の密度に重きを置くか、ストーリーの強度を優先するか、という方向性の違いです。円堂さんが先ほどおっしゃったように、僕はもともと純文学誌でデビューした人間なので、坂上編集長に「この作品は純文学寄りに仕上げた方がいいですか」と確認したら、「それは×」という、腕を交差させるジェスチャーで答えられてしまって(笑)。とはいっても、90周年の「文藝」に僕が『テスカトリポカ』パート2を載せる意味はないですから。普通に考えたら業界も読者も、佐藤究の次作は『テスカトリポカ』パート2でいいような空気でしたし、あえてそこから外れたこの小説で砕け散ったら僕はもう終わりですよ、と文句も口にしたんですけど(笑)、直木賞をもらう前からの約束なので、やるしかなかった。