家康は逃亡劇によって天下人になった? 『家康と七人の忍び』佐藤賢一による“伊賀越え”の解釈とは

『王妃の離婚』などヨーロッパ歴史小説の大家であり、近年は日本史のエンターテインメント作品でも高い評価を得る直木賞作家・佐藤賢一。最新作『家康と七人の忍び』(中央公論新社)は、「神君伊賀越え」の謎に迫る血湧き肉躍る歴史アクションだ。漫画や映像作品に負けない「言葉による肉体描写」へのこだわりから、死線の中で天下人へと脱皮していく家康の心理、そして現代における歴史・時代小説の意義まで佐藤に聞いた。
佐藤賢一が言葉で挑む徹底的な肉体描写

――本作『家康と七人の忍び』のモチーフに、いわゆる「伊賀越え」を選んだ理由から教えてください。
佐藤賢一(以下、佐藤):そもそもの話でいうと、タイトルにもある「忍び」、つまり忍者を書きたいという思いが、実は最初にあったんです。それをどういう形で書こうかと考えたときに、一般的に「神君伊賀越え」と呼ばれる逃避行では、家康は服部半蔵の手引きのもと、忍者たちの助けを借りたと言われている。だったら、それをそのまま書けばいいんじゃないかというところから構想していきました。
――「忍者を書きたい」と思われたのは、近作『チャンバラ』などでの「アクション描写へのこだわり」と繋がっているのでしょうか。
佐藤:そうですね。何作か前から、いわゆる「アクション」と呼ばれるものを、小説の中で徹底的に書いてみたいと自分の中で思っていまして。宮本武蔵を描いた『チャンバラ』もそうですし、その前の『ファイト』というモハメド・アリを主人公にした小説でも、アリの試合をメインに書きました。つまり、本当に「人間の動き」や肉体というものを書きたいなというところで、ボクシング、剣の戦いときて、その次は何だろうと思ったときに、やっぱり忍者ではないかと。
――ただ、ボクシングや剣術と違って、忍者の戦いをリアルに描くのは一筋縄ではいかないですよね。
佐藤:そうなんです(笑)。ある意味ファンタジーに振ろうと思えばどこまでも振れる分野ですが、そっちの方法は山田風太郎先生の作品を代表に、もうやり尽くされたかなという気がしていて。であれば、ある種のリアリズムというか、「これなら現実にあったんじゃないか」と思えるようなところで書いてみたいという思いがありました。
実は僕が小説を書き始めた頃って、こういうチャンバラやアクションを小説で書くのは敬遠されるような雰囲気がちょっとあって、実際あまり書かれていなかったんです。僕も特に疑問を持たずにやってきたんですが、10年ほど前ですかね、「こういう動きや肉体の描写を、小説家たちがサボってきたってことなんじゃないか」と思うようになって。
――現在はそうしたアクション描写の多くが、漫画やアニメ、映像作品の独壇場になっています。
佐藤:そう、漫画やアニメに比べると、小説はちょっと遅れをとっているんじゃないかと。そこをもう一回、小説の言葉で書いて、エンターテインメントとして出すことはできないだろうか。そういう気持ちやこだわりを持って『ファイト』『チャンバラ』と書き進め、今回この『家康と七人の忍び』にたどり着いたという感じですね。
「伊賀越え」のリアリズムと、計算された忍者たちの「華」

――「伊賀越え」は映画やドラマでも定番の題材ですが、本作ならではの切り口はどこにあるのでしょうか。
佐藤:先行する作品を見ると、「伊賀越え」を扱ってはいても、「大変だった」の一言で終わらせたり、そこに至る政治的な経緯や陰謀論などの裏話をメインに描くものが多いように感じていました。ルートを細かく辿るような「伊賀越え」そのものを正面から書いた作品は意外と無いなと気づき、そこへ忍者を入れ込めば面白いものが書けると思ったんです。
――歴史の裏側ではなく、リアルな逃避行そのものを描くということですね。
佐藤:そうです。ただ、調べていくうちに服部半蔵はそこまで活躍していないと分かって(笑)。むしろ家康に同行していたもう一人の人物、本作の主人公でもある「服部平太夫」が配下の忍びを使った形にした方がいい。上層部が理屈をこねたり謀略を巡らせたりするのではなく、実際に「伊賀越え」をしていく様子を、実録もののような形で書いていこうと考えました。
――リアリズムで書くとなると、忍者の動きを表現するための資料集めも難しそうですが、いかがでしたか。
佐藤:いえ、探してみると忍者の秘伝書などが普通に出版されていて、アクセスしやすかったんです。読んで納得はするものの、それが実際にどう動くかは書いてみるしかないのですが(笑)、手がかりになる資料はたくさんあったので意外と困りませんでした。そこから資料を当たりながら「こういう特技を持たせよう」と、7人の忍者のキャラクターを作っていきました。7人という数自体は、語呂がいいから選んだんですけどね(笑)。
――設定にはケレン味がありつつも、描写は徹底してリアルなので、そのバランスが非常に面白いです。
佐藤:絶対にありえないことは書きたくない、という思いが根底にありました。たとえば作中に走るのが得意な忍者が出てきますが、マラソンの世界記録を見ながら、時速何キロでどれだけの距離を走れるかを逐一計算しました。「この距離をこの時間で走ることは絶対に不可能とは言えない」というギリギリのラインを意識しています。
――そこまで厳密に計算されているのですね。
佐藤:ただ、リアリズムに徹しすぎると地味な話になってしまい、エンターテインメントとして楽しくありません。読んで楽しんでもらえるよう、忍者たちの「華」を残しつつ、それが嘘っぽくならないようにするバランスが、今回いちばん腐心したところかもしれないですね。
「伊賀越え」は家康が天下人へと成長する契機だった
――忍者小説としての面白さの一方で、歴史の流れや徳川家康の心理描写も非常に重厚に描かれていますね。
佐藤:忍者だけが突出して物語から浮いてしまわないよう、歴史の流れの中にきちんと位置付けたいと考えていました。私たちはどうしても、のちに天下人となる「結果」から遡って家康を見てしまいがちです。江戸時代に作られた「神君」というイメージがまさにそうですね。しかし「伊賀越え」の最中の家康は、天下を取る意識なんて全くなかったはずです。信長が急死し、状況も分からないまま、兵も連れずに逃げ出すという大ピンチだったわけですから。
――しかし三河に戻ったあとの家康は、妙に落ち着いて豊臣秀吉と天下を争うようになっていきます。
佐藤:そう、そんな短期間で人間の意識がそこまで変わるものなのかと、かねてより不思議に思っていました。そこで本作では、「なぜ自分はこんな危険な目に遭うのか、なぜ命を狙われるのか」と家康が死線の中で考え抜くプロセスを描きました。命を狙われるということは、「自分は意外と大物として見られているのではないか」「実は今、結構いいポジションにいるのではないか」と、自分を位置づけ直していく。ポスト信長の権力争いの中で家康が成長していく、その決定的な契機こそが「伊賀越え」だったのではないかと解釈して書きました。
――旅の始まりでは、信長の死に直面してパニック状態に近かった家康が、終わりには変貌を遂げている。本多忠勝や榊原康政といったお馴染みの重臣たちも、本作では恐慌状態で意外と頼りなく描かれているのが人間味があって面白いです。
佐藤:そうですね(笑)。やはりこういう予測不能の急場をしのぐときは、名もない忍たちのほうが頼りになる。実際の現場でも彼らが活躍したのではないかという想定です。
早逝した先輩作家たちから受け継いだバトン
――とはいえ、その忍者たちの活躍が徐々にスケールアップしていき、最終的には非常にスペクタクルなエンターテインメントに振り切っていきますね。
佐藤:そこもリアリズムのギリギリを狙いました。嘘にならない範囲で、一番派手な活躍をさせたいなと。たとえば「忍者が空を飛ぶのはどの程度可能だったのか」ということも調べました。現代でいう、ムササビのようなスーツを着て空を滑空するウイングスーツ・フライングみたいなことが、当時できなかっただろうかと。
――現代のエクストリームスポーツで使われる「ウイングスーツ」のような滑空を、当時の忍者にやらせてみるというのは驚きの発想です。
佐藤:YouTubeなどで動画を観ながら「こういう感じなら、ギリギリ嘘にならずにいけるかな……」と(笑)。人間の肉体の可能性を最大限に引き出して、一番派手なことをやらせてみました。現実に今、人間が肉体一つでやっている驚異的なスポーツが相当ありますから、それを忍者にやらせてできないことはないなと。ファンタジーに逃げなくてもこれだけ派手なアクションが書けるんだというのは、自分にとっても大きな発見で、書いていて本当に楽しかったです。
――当初用意したキャラクターたちが、執筆が進むにつれてどんどん勝手に動き出し、成長していったような手応えもあったのでしょうか。
佐藤:まさにそうです。架空の登場人物たちが、書いている途中でやることがどんどん派手になり、人物的な奥行きも増していきました。そんな本作ですが、普段から歴史小説を読まれている方はもちろん、20代や30代の若い世代の方々にもぜひ読んでいただきたいですね。「こういう歴史小説の書き方があるんだ」「こういう世界の広げ方があるんだ」と感じてもらえるはずですし、今まで食わず嫌いをしてきた人にも楽しんでもらえる手応えがあります。
――ところで、佐藤さんといえば『王妃の離婚』をはじめ西洋史をベースにした作品の印象が強いですが、近作『チャンバラ』や本作など、近年は日本の歴史を扱ったエンタメ作品も増えていますね。
佐藤:自分の中では大きく変わった意識はなくて、今も西洋史ものは書き続けています。ただ、出版界で「佐藤賢一は日本史も書くんだ」と認知されて、ご依頼をいただく機会が増えたのが一つ(笑)。
――ただの心境の変化だけでなく、作家としての幅が認知された結果なのですね。
佐藤:加えて、もう一つ強い思いがあるとすれば、同じ時代を戦ってきた山本兼一さんや葉室麟さんといった先輩作家の方々が、思いのほか早くお亡くなりになってしまったことです。「彼らが生きていたら、今頃どんな時代の誰を描いただろう」といまだに考えてしまう。もうお二人の新作は読めないわけですから、だったら「自分が書くか」と。日本史に向き合うときは、少なからずそういう引き継ぐような気持ちが自分の中にあります。
スマホもネットもない時代劇が内包する普遍的な魅力
――それらに加えて、先ほどおっしゃっていた「人間の身体性を書く」というアクションへの挑戦も、近年の佐藤さんの大きなテーマになっているのですね。
佐藤:そうですね。若い頃は今思えば頭でっかちだったのか、手で触れられるような実感を伴うものを書くタイプではなかったんです。それがこの年齢になってみると、頭で考えるよりも、まずは触ってみる、動いてみる、ということを書きたくなってきた。自分自身の肉体が衰えてきたからこそ、そうした身体性に逆に興味が湧いてきたのかもしれないですが(笑)。
――(笑)。今の時代に歴史や時代小説をあえて「書く意義」「読む意味」はどこにあるとお考えですか。
佐藤:なぜわざわざ過去に遡るのか、ということですよね。日本の歴史・時代小説には「ちょっと懐かしくて心地良い」という感覚がきっとあります。それを突き詰めていくと、私たちは「この現代において、果たして人間が本来あるべきように生きられているのだろうか」という疑問に行き着く気がするんです。
――現代は、人間が人間らしく生きる姿を描きにくい時代になっている、と。
佐藤:ええ。歴史・時代小説の世界には、今私たちが便利に使っているテクノロジーが一切ありません。しかし、それが無い中でのコミュニケーションや人間関係のほうが、むしろ人間本来の在り方に近いのかなと。現代を舞台にそれを書こうとすると「いや、今はそうはならないよ」と嘘っぽくなってしまいますが、私たちが心の奥底で欲しているのは、実はそういう生身の繋がりです。それを素直に書けて、素直に読める場所こそが歴史・時代物なのだと思います。
――だからこそ、現代の若者が戦国時代などにタイムスリップするような物語も、いまだに廃れず人気を集めているのかもしれません。
佐藤:そういう面もあるのでしょうね。今はスマホがないと生きられない人がたくさんいますが、それが本当に自分のやりたかったことなのかと言えば、何とも言えません。過去の世界へ行けばスマホなんてありませんから、自分から誰かに話し掛けないと何も始まらない。今の時代なら恥ずかしくてできないこと、言えないことも、過去ならやらないと生きていけない。そうした不便さの裏返しにある生々しい魅力が、歴史・時代小説には厳然としてあるのだと思います。
























