ムーミン谷はなぜ生まれたのか? ヤンソン研究の第一人者が解き明かす、創作と人生

ムーミン谷の源流を探るトーベヤンソン評伝

ヤンソンにとってムーミンシリーズだけが特別なわけではない

冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方へ』(筑摩書房)

 ムーミンが初めて登場する『小さなトロールと大きな洪水』が刊行されてちょうど80年にあたる今年、〝The door is always open〟をテーマに掲げて、限定グッズの販売や展覧会の実施など、ムーミン・シリーズが各所で盛り上がりを見せている。そんな記念すべき2025年が始まってまもない2月、トーヴェ・ヤンソン研究の第一人者として知られ、『小さなトロールと大きな洪水』の翻訳も手掛けた冨原眞弓さんが亡くなった。その遺作として7月に刊行されたのが『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方へ』(筑摩書房)。8年の歳月をかけて完成された、冨原さんの集大成とも呼べる評伝である。

 冨原さんが〈わたしにとっても思い入れのある本〉として語る『小さなトロールと大きな洪水』は、厳密にいうと「ムーミンシリーズの1作目」ではない。評伝にもあるように、出版当時の北欧ではあまり受けず、翻訳したいと願った冨原さんがスウェーデンとフィンランド中の古書店を探し回っても、なかなか見つけることができなかった。1990年、ようやく見つけてヤンソンに翻訳出版を直談判しにいくも、彼女は首を縦に振らなかったどころか、原作が再び日の目をあびることにも消極的で、復刊したのは1991年のこと。

 第2作以降とはかなり色合いが異なるその作品を、復刊するなら大幅な書きなおしが必要だと逡巡していたらしい、と冨原さんは語るが、最終的にヤンソンはまったく手をつけずにそのまま刊行することを選んだ。〈書きなおすなら技術的には完成度は高くなる。だが、この本の魅力でもあるひたむきさや初々しさは失われてしまう。「若くて考えなしで怖いもの知らず」だからこそ、書けたものがある〉と。

 それはいったい、どういうものだったのか。もちろん、第2作以降と読み比べてもらえれば、感じとれるものは確かにある。それでも、この評伝を読んでみることをおすすめしたい。というのも、この評伝でムーミンについて語られるのは、ほんの一部。その大半は、ヤンソンがどんな家庭と環境に生まれ育ち、どのような人に出会いながら、画家として、作家としての自分をつくりあげていったのかーーその歩みのほうに割かれているからだ。

 それはたぶん、「ヤンソンにとってムーミンシリーズだけが特別なわけではない」ということを、冨原さん自身がよく知っていたからだろう。

芸術家として生きる道を模索し続けたヤンソンの想い

 もちろん、ムーミンパパやムーミンママの造形には、ヤンソン自身の両親の影響が見てとれるし、明確にキャラクターのモデルになった人物はたくさんいる。ヤンソンが結婚を考えた相手であり、スナフキンのモデルともなった男性ジャーナリスト、アトス。冨原さんいわく〈純粋なファンタジーとしていわば虚空に浮かんでいたムーミン谷が、この現実の地上に根を下ろしはじめた〉ことを象徴するキャラクター、トゥーティッキのモデルともなった女性芸術家・トゥーリッキ。ムーミンシリーズには、ヤンソンの人生がおおいに反映されているし、物語にするずっと前からムーミンの原型となるキャラクターはヤンソンのなかで生まれ、絵として残されてもいるから、特別な表現の一つではあっただろう。

 だが、その生き方が映し出されているのはムーミンシリーズに限った話ではなく、ヤンソンの創作物すべてにいえること。だからこそ、ムーミンシリーズを愛する人にも、ムーミンが生まれる前のヤンソンのことを、この評伝を通じて知ってほしいと思う。

 個人的に印象に残っているのは、1929年にヤンソンが雑誌に連載した毛虫のカップルを主人公にした絵物語と『小さなトロールと大きな洪水』を比較して、冨原さんが書いたこの文章。〈「小さくて、非力で、見栄えもぱっとしない」。自然の脅威になすすべもなく、周囲の生きものの気分や挙動に振りまわされる。だからこそ、知恵をしぼり、想像力をはたらかせ、仲間と助けあって、生きていく。〉

 それは、芸術家として生きる道を模索し続けたヤンソンの想いとも重なるのではないだろうか。戦争が、大好きな人たちの大好きなところを失わせてしまうこと、誰からも自由を奪い取っていくことの理不尽を知り、結婚と子育ては女性の自主性と自由を奪うのではないかと肌で感じ続け、自身の結婚にもためらい、さまざまに痛みと迷いを抱えながらも芸術家であり続けた彼女が、創作に反映させたものはなんだったのか。本書を読めば、ムーミンシリーズ以外の作品も手にとってみずにはいられなくなるだろう。

 冨原さんの引用したヤンソンのインタビューによれば、ヤンソンが物語を書いているのは、子どもたちではなく自分のため。そして「スクルット」ーーどこにいても居心地がわるく、外部または周縁にとどまっていて、途方にくれている人たちのためだという。スクルットの状態を抜け出ている場合もあるし、うまく隠しおおせている場合もある。それはヤンソン自身がスクルットであるから、でもあるのだが、評伝を読んでいると、想像している以上にヤンソンの書くものは「私たち」に向けられていて、そして、だからこそ、これほどまでに人々の心を魅了し続けているのだということがわかる。

 そのことについて、冨原さんに、直接お話をうかがう機会を得られなかったことが、残念で、悲しくてならない。2022年、『ダ・ヴィンチ』のムーミン特集にて冨原さんに取材した際、この評伝に取り組んでいる最中であるというお話を聞いて、出版される日を心待ちにしていた。刊行された折には、絶対に取材させてもらおうと、心に決めていたから。

 でも、あとがきに冨原さん自身が書いている。〈ひとの死はいつだって不意討ちでやってくる〉と。2001年6月のヤンソン逝去に触れてのことだが、本当にそのとおりなのである。だから、〈軽い手荷物すらもない、魂ひとつの、かろやかな旅〉に出てしまったヤンソンに冨原さんが向けた言葉で、このレビューを締めくくりたい。

 冨原さん、どうぞ、よい旅を。

■書誌情報
『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方へ』
著者:冨原眞弓
価格:3,300円
発売日:2025年7月10日
出版社:筑摩書房

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