朝鮮半島には、倭から渡来した人々の歴史が息づいているーー『渡来人とは誰か』の著者・高田貫太が語る、新たな渡来人像

渡来人研究は人文科学で一番進んでいる学問
高田貫太『渡来人とは誰かーー海を行き交う考古学』(ちくま新書)

 「渡来人」という言葉は、歴史の勉強をした人なら誰でも聞いたことがあるだろう。古墳時代に朝鮮半島から倭に渡り来て、織物、馬具、農業などの技術を伝えた職人集団というイメージがないだろうか。

 しかし、渡来したのは彼らのような特別なひとたちだけだったのだろうか? 朝鮮からばかりでなく、倭から渡っていったひとたちもいたのではないだろうか? そんな謎をわかりやすく教えてくれるのが、考古学者で古代東アジアの交流史が専門の高田貫太による『渡来人とは誰かーー海を行き交う考古学』(ちくま新書)である。

 いま朝鮮半島では、倭から渡ったひとたちの生活していた跡が次々と見つかり、これまで常識とされていた古代東アジア史が覆りつつある。高田貫太に、渡来人研究の最前線について聞いた。

草の根の古代史を、考古学で明らかにする

高田貫太氏

――本書の執筆動機と、その背景にある問題意識についてお聞かせください。

高田貫太(以下、高田):学術的なところから申し上げると、「渡来人」というものの実態を、考古学の最新の知見のもとで明らかにしたかったんです。5世紀の初め頃、主に朝鮮半島から渡って来た人々が、当時「倭」と呼ばれていた日本の古代社会の中でさまざまな仕事をして、それが倭の政治・経済・文化に大きな影響を与えた――こんなふうに、「渡来人」という言葉は、高校の歴史の教科書でも詳しく記述されています。

――聖徳太子のブレーンだったと言われている「秦氏(はたうじ)」も有名ですね。

高田:そうですね。「秦氏」や「東漢氏(やまとのあやうじ)」といった、「渡来系氏族」と呼ばれる人たちは皆さんご存知だと思います。しかし、その前身であり、なおかつ何度も日本列島と朝鮮半島を行き来している人たちの存在はあまり知られていない。そもそも「渡来人」というと、どこか特殊な人たちというイメージがありますよね?

――ある能力に特化した、選ばれし人たちというイメージですね。

高田:もちろん、そうした専門職の人たちもいましたが、実際はそれだけではありません。倭と高句麗の戦乱を避けるためなど、さまざまな事情で渡り来た人たちがいました。そういった知られざる人たちの実態について、この本の中で書きたかったんです。海を越えて渡って来た人々は、もともと住んでいた倭の人々と、どんな関係にあったのか。草の根の古代史を考古学的な根拠をもとに提示することが執筆動機でした。

――文献史学で扱われるような公文書には書かれていない渡来人の実態を、考古学で浮き彫りにしたかったということですね。

高田:文献史学と考古学というのは、どちらも歴史学なので、重なっている研究テーマもすごく多いのですが、そもそも扱っている資料が違います。いま「公文書」とおっしゃいましたが、歴史史料の多くは、その時代の為政者のもとで作られていますよね。文献史学は、そういった「公的な史料」を扱うことで、マクロな視点から、鳥瞰的に古代の東アジア、つまり日本列島と朝鮮半島の政治経済的な情勢を描くことが得意です。

 それに対してわたしが専門としている考古学は、遺跡から出てくる土器であるとか、古墳の副葬品であるといった「物質文化資料」を扱うので、それ自体は何も語らないんですよ。研究者が分析、検討をして評価を与えないと、物質資料はそのままそこにあるだけです。もの言わぬ出土品から歴史を立ち上げていくことが考古学の目的です。ミクロな視点で物質文化資料を調べていくことによって、当時の人々の暮らしを明らかにすることができる――これぞ考古学の得意とするところです。

 わたしが専門とする古代東アジア史に限らず、現代の国際政治史にも当てはまるのですが、どうしても歴史は「国」という単位で描かれることが多い。いまでも「ロシアは~」とか「ウクライナは~」とか、そういう言い方になってしまう。もちろん、「国」単位での描き方も必要だし、大事です。しかし、実際その中にいる人たちは、ものすごく多様なわけです。

――ひと口に「日本で暮らしている人」と言っても、一言では言い表せないほど多岐にわたりますよね。

高田:「国」という大きな主語だけで古代史をとらえると、そのほかの多様な部分が全部切り捨てられてしまう。大きな歴史の流れに左右されながらも東アジアを往来してきた庶民の生の姿をきちんと提示していくこと。そうしなければ、豊かな歴史というものは描くことはできないと思います。

――本書で扱っている3世紀から6世紀頃までの「古墳時代」まで遡ると、「国」という概念をどこまで適用していいのかわからなくなりますね。

高田:そうですね。わたしもこの本の中で、仕方なく「倭人」という言葉を使っています。「渡来人」という言葉も使っていますけど、できれば使いたくありませんでした。あくまでも「倭の人々」とか「朝鮮半島から倭へ渡った人々」、あるいはその逆の人々といったニュアンスで使っていて、「何々人」といったものを、できるだけ相対化したかったんです。

世間と研究者との歴史認識のズレ

――本書の第一章では、3世紀から6世紀、加耶が滅亡する562年までの歴史が、かなり詳細に書かれていますね。

高田:わたしは、いまから8年前に『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書)という、古墳時代の日本列島と朝鮮半島の関係史を書いた本を出しているのですが、『渡来人とは誰か』の第一章は、その内容をよりブラッシュアップしたものになっています。

 古代朝鮮には、新羅、加耶、百済、高句麗、あと栄山江流域の小さな国々が割拠していたのですが、海を隔てた倭も含めて、それらの国々のあいだを行き来して、それぞれの社会を取り持つ外交官のような人たちがいたということが、考古学的な研究から明らかになっています。彼ら外交官の人たちを、いわゆる「通史」の中に書き込んでいくことを、この章ではやりたかったんです。なので、第一章に関しては、8年間で深みを増した「ウイスキー」のような書きっぷりになっていると思います。

――つづく「第二章 朝鮮半島から倭に渡る」では、先行研究が整理されています。

高田:渡来人に関しては「渡来人研究」という言葉があるぐらい、長年に渡って多くの人たちが研究してきた分野です。わたし自身は交流史が専門ですが、新書一冊をオリジナリティのみで書ききろうとせず、これまでの渡来人研究の成果の中で感銘を受けたもの、重要だと思ったものを整理しました。そういう意味で第二章は「カクテル」になりますね。

――なぜ渡来人研究はそんなにも盛んなのでしょうか。

高田:倭と朝鮮半島の交流史を研究することが、結果的に「日本人とは何か?」といった話に繋がるからだと思います。日本人のアイデンティティに関わる研究テーマであることは間違いありません。また、戦前戦中にプロパガンダにも悪用された日鮮同祖論に対する反省もあります。

 しかし、渡来人研究は盛んではあるものの、その成果を社会に発信できていないのが現状です。例えば、専門家たちのあいだでは、いわゆる統治機関としての「任那日本府(※)」は存在しないということは、もはや自明の理になっています。そういったことはどんどん発信していくべきだと思っています。

(※)任那日本府(みまなにほんふ):古代の朝鮮半島南部に設置されたとされるヤマト王権の機関。『日本書紀』にのみ記述が見られ、その実在性は疑問視されてきた。

――世間の人たちが求める歴史の姿と、研究者が明らかにしている歴史の姿にズレを感じますか。

高田:先日、ある政治家が「そもそも、我々が渡来人なんです」といった旨の発言をして物議を醸していました。SNSの反応を見ても、「渡来人」という言葉がひとり歩きしている印象です。そもそも「渡来人」というのはあくまでも歴史用語です。学術的なところを踏まえてこの言葉を使って欲しいですし、研究者側の責任としても、そこはきちんと発信していかなければならないと思いました。

朝鮮半島南岸部に残る、倭の人びとの足跡

――「第三章 渡海した倭の人びとを訪ねて」では、また趣きを変えて、朝鮮半島南部の沿岸部にある古代遺跡をめぐるクルーズが始まります。

高田:この章ではわたしのオリジナリティを出しています。倭から朝鮮半島に渡った人たちの足跡を船旅のように辿るもので、教科書にも載っていない、恐らく一般書にもほとんど書かれていない内容になっています。

 これまでの渡来人研究は「日本人とは何か?」といったことも含めて、そのほとんどが「日本史の問題」として扱われています。ただ、交流史を研究してきたわたしとしては、朝鮮半島から日本列島に来た人だけを扱って、それを「日本史の問題」として捉えることに疑問がありました。行ったり来たりの片方だけを取り上げることが、当時の人々の実態を捉えることになるのだろうかと思ったんです。

――向こうから来るだけではなく、こちらからも行っているわけですよね。

高田:そう、こちらからも意外と渡っている人が多い。第三章でまとめたように、倭から古代朝鮮に渡った人たちの痕跡は、考古学の分野ではかなりわかってきている。渡っていった人たちも含めて「渡来人」と捉えながら歴史を描いたほうが、日朝関係史における草の根の交流史を描くことができます。

 そのためにも、朝鮮半島南岸部にある古代遺跡を、ひとつひとつ整理して紹介していきました。韓国のどこに、どんな遺跡があって、そこから倭の人たちのどのような痕跡を探ることができるのか。ただ、これを専門書のように羅列しても、間違いなく読者は飽きてしまう。探訪する遺跡の一覧表を掲載していますが、それを見てクラクラする人もいるでしょう(笑)。

高田貫太『渡来人とは誰かーー海を行き交う考古学』(ちくま新書)第三章より「探訪する遺跡の概要」

 そこで思いついたのがクルーズです。読者にも旅をするように読んでもらいたいですね。本来であれば、遺跡というのは各年代ごとに整理して語らなければいけないのですが、船で回るという書き方であれば、6世紀の遺跡を見たあと4世紀の遺跡を見ても、そこまで違和感がない。それで第三章は、少し遊び心を加えてこういう書き方にしてみたんです。

――朝鮮半島南部の海沿いの地域に、倭の人びとの足跡が残る古代遺跡がこれほどたくさんあることに驚きました。

高田:そうなんです。ただほとんど知られていない。なので研究発表の第一歩として、しぼりたての「新酒」といった趣で読んでいただけたらいいなと思っています。「ウイスキー」と「カクテル」と「新酒」――結果的にではあるのですが、全体のバランスが取れた構成になったと思います。

歴史とはボートを漕ぎながら未来へ進んでいくための学問

――渡来人研究は日韓の政治状況に左右される印象がありますが、いまはどういった状況なのでしょうか。

高田:1991年、朝鮮半島で前方後円墳が発見され、発掘調査が行われました。しかし、当時、調査の成果をまとめた報告書は刊行されませんでした。おそらく、日本独自の墳墓が朝鮮半島にあることが世間に知られると、過去をめぐる日韓関係がギクシャクする、そういう懸念があったのだろうと思います。

 その正式な調査報告書が刊行されたのは、つい最近の2022年です。こういった報告を世に出しても、建設的な議論ができるタイミングだと判断されたためです。いま考古学の分野では、日韓交流がとても深まっています。人文科学で一番進んでいる学問のひとつといっても過言ではありません。

――日韓交流史の研究を志す、若い研究者が増えると嬉しいですね。

高田:最近はK-POPを聴いたり、韓国ドラマを観たりする人がたくさんいます。グルメはもちろん、コスメも人気ですよね。わたしが韓国に留学していた25年前と比べると、その違いに心から驚きます。何らかの形で韓国に興味を持っている人って、いますごく増えてきている。韓国のカルチャーに興味がある人たちの中で、日韓の交流史にも関心がある方には、ぜひ本書を読んでもらいたいです。

 そして本書を読んで、考古学の面白さをちょっとでも感じてもらえたら嬉しいですし、実際に韓国に行って、本書で紹介している遺跡を回ってもらえたら、研究者冥利に尽きます。

――いわゆる「歴史観」的なものとは一線を画する、古墳時代の草の根レベルの交流を追った本として、非常に面白かったです。

高田:ありがとうございます。そのように読んでいただけたら嬉しいです。

 わたしの尊敬している古代史学者の山尾幸久さんが、「歴史というのは、ボートを漕ぎながら未来へ進んでいくための学問だ」ということをおっしゃっていました。漕いでいる人の背中に未来があって、目の前には歴史が広がっている。つまり、ボートをうまく漕ぐためには、ちゃんと歴史を見なければならないということです。これこそ、歴史学の根本的な役割だと思います。日本列島と朝鮮半島に暮らす人々は、これからどういうふうに交流していったらいいのか――本書がそういったことを考えるときのひとつのヒントになれば、非常に嬉しく思います。

■書誌情報
『渡来人とは誰かーー海を行き交う考古学』(ちくま新書)
著者:高田貫太
価格:1,320円
発売日:2025年8月5日
出版社:筑摩書房

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