杉江松恋の新鋭作家ハンティング 社会の理不尽を受け止める奇想文学、石井遊佳『ティータイム』

全四篇のうち前半の二篇はこのような内容なのだが、三篇めの「網ダナの上に」でがらりと雰囲気が替わる。なにしろ書き出しが「網ダナの上に、わたしはいる」「おもな居場所は列車の中。十年ほど経つ」なのだから、この先に何が待ち受けているのかはまったく予想がつかないではないか。
この〈わたし〉が当たり前の人間ではないということはお察しの通りである。しかし、具体的にどんな存在なのかは書かないことにする。〈わたし〉の今がそうあるのはなぜか、ということが少しずつ明かされていく過程にこの作品を読む喜びの、半分はあるように思う。〈わたし〉が今ある場所がどのようなものかがわかると、構築された世界観の豊かさに舌を巻かされることになる。確固としたものがあるから、動きの多い後半の展開が映えるのだ。
そして作品を読む喜びは半分は、〈わたし〉がある「目立たない場所にある穴」となった人物に向ける視線の優しさにある。〈わたし〉もまた不幸な生い立ちを持つ人物なのだが、それゆえか「穴」であることを押し付けられた人物に、単なる同情には収まらない感情を抱くようになる。社会の穴であることを生まれながらに押し付けられた者たちの、力ない呟きがこの小説からは聞こえてくる。
最後の「Delivery on holy night」は読者の予想を最も裏切る作品ではないかと思う。語り手の智史は、宅配ピザの運転手をして生計を立てている青年だ。その彼が気まぐれからデリヘルを利用し、やってきた万里亜という女性に一目ぼれしてしまう。そしてあろうことか、万里亜は後日、智史に電話をくれるのである。クリスマスの夜にプライベートで会いたいと言う。もちろんその日は、宅配ピザ屋にとっては書入れ時だ。だが、智史は鉄の意志をもって休暇を申請し、勝ち取る。噂では、同じような誘いに乗って莫大な額の借金を背負わされた者もいるという。だが智史の決意は変わらない。万里亜に会うのだ。
あ、やめたほうがいいのに、と99%の読者は思ったのではないだろうか。そう、普通の小説の展開ならこのあとにひどいことがある。ひどいことが起きるが実は、というハッピーエンドが来る可能性もあるが、それは小説としては駄目だろう。つまり、智史が万里亜の誘いに乗る未来には、文脈的にも、メタ的視点からいっても、ろくな結末は来ないはずなのだ。
だが作者はやすやすと読者の予想を飛び越えてしまう。斜め上の発想どころではない。ジェフリー・アーチャーの長篇を濃縮して詰め込んだ展開によって智史の運命を捻じ曲げ、誰もがまだ見たこともないであろう結末に読者を連れて行ってしまうのだ。
なるほど、これは奇想文学と呼ぶにふさわしい。
言うまでもないがこの最終篇にも「目立たない場所にある穴」ゆえの悲嘆は描かれている。社会の中で大きな声を上げようとしない、自分を主張しすぎることをよしとしない人々が、それゆえの辛酸を舐めるさまが各作では描かれる。真っ当に生きているのに、声が小さいだけでそんな目に遭うのである。理不尽だ。その理不尽さを受け止める網として準備されているのが本作における奇想だ。世界は見たことも無い形に捻じ曲がる。奇想が世界を救うわけではない。だが、こことは違う他のありようがあるかもしれない、という可能性を読者に見せてくれるのだ。なんという優しい小説か。
石井遊佳、2018年デビュー作『百年泥』にて第158回芥川賞を受賞。不覚にもその後の第二作『象牛』を読み逃していた。不明を恥じる。これから買いに行く。























