王谷晶『ババヤガの夜』、日本人初「ダガー賞」受賞なるか? 翻訳担当者「三島由紀夫作品にも近いリズム感があった」

王谷晶『ババヤガの夜』ダガー賞候補に
英語版『The Night of Baba Yaga』

 王谷晶の小説『ババヤガの夜』(河出書房新社)の英語版『The Night of Baba Yaga』が、ダガー賞の翻訳部門最終候補作にノミネート。日本人初受賞の期待が高まる中、翻訳者のサム・ベットと共に事前記者会見が行なわれた。

 ダガー賞とは、英国推理作家協会(CWA)が主催するミステリー小説・犯罪小説に贈られる世界最高峰の文学賞。翻訳部門では英語以外の言語で書かれ、英国で出版された英語翻訳作品が対象となっており、これまで日本作品では横山秀夫の『64(ロクヨン)』(2016年)、東野圭吾の『新参者』(2019年)、伊坂幸太郎『マリアビートル』(2022年)が最終候補作に選出されてきた。

 年々、英国における日本の文学作品への評価が高まる中で、2025年は最終候補作6作品に王谷晶の『ババヤガの夜』と、柚木麻子の『BUTTER』の2作品が初めて同時ノミネートされたことでも大きな話題に。そして受賞となれば、日本人初の歴史的快挙となる。

 王谷は「亡くなった祖父が海外ミステリー好きな人だったので、ダガー賞については子どものころから知っていました。なので、ノミネートされたときには予想外のことですごく驚きました。今もずっとびっくりしっぱなしの状態です」と率直な感想を述べた。

伊丹十三映画の雰囲気と三島由紀夫小説のリズムを彷彿とさせた『ババヤガの夜』

 『ババヤガの夜』は暴力を極めた新道依子がトラブルに巻き込まれ、その腕っぷしを買われてヤクザの組長の娘・尚子の護衛を任されるところから物語が始まる。本作を書き始めるにあたり「アクションをテキストでやりたかった」と振り返った王谷。

 男性社会を象徴するようなヤクザの世界で、女性の依子が次々と暴力で制圧していく展開について「女性だったら多くの人が、一生に何回かは『今、自分が強かったら……』と思ったことがあるのではないでしょうか。物理的に女性が男性を凌駕するのは難しいことですが、フィクションの中だったらどんな人でもいかようにも暴れさせることができるなと思って書きました。とはいえ、そうしたファンタジー的な部分を書きながらも、単純にスカッとして終わりという話で終わらないようにはしていて。やっぱり現実はそんなにスカッとしないので(笑)」と語る。

 血生臭さが鼻先を駆け抜けるようなスピード感溢れるバイオレンス描写。力でねじ伏せてこようとする男たちに「私からは、あんたらに喧嘩は売らない」「ただし、売ってきたら倍値で買う」と啖呵を切る依子の強さに痺れる読者が続出した。そんな『ババヤガの夜』が英語圏でも人気を博した理由を、翻訳を担当したサム・ベットは「暴力の扱い方が特徴的」と分析。「この作品は暴力を道具としてではなく現象として認めて、そのあとのことをゆっくり観察するような雰囲気があります。生々しい暴力描写があるけれど、どこか安心してエンタメとして楽しめるヒューマン感がある。そういう意味では少し伊丹十三監督のヤクザ映画に通ずるところがあるかもしれないと思いました」と語った。

 加えて「内容やテーマは全然違いますが」と前置きをしたうえで、本書を最初に読んだ印象について、かつて自身が翻訳を手掛けたこともある「三島由紀夫作品にも近いリズム感があった」とも。文と文のつながりや文章の流れなど、細かいレベルでの親和性を感じたそうだ。そうしたサム・ベットの感想に「初めて言われました。光栄です」と驚きの表情を浮かべていた。

名前のつかない関係性を描くなかで、より強まった「曖昧さが大事」という思い

 本作では依子と尚子との間に、生きていくために背中をあずけ合う絆が芽生えていくところから、シスターフッド作品として注目が集まった。友情でも、愛情でも、性愛でもない、名前のつけられない関係性。そんな依子と尚子の絆に心を打たれながらも、現実には「あの人とあの人はどんな関係なのか」と名前がつかないとどこか安心しない感覚がある。特に、ここ数年の世の中に「問題が起きたら考える時間も与えずに白黒ハッキリ迫られているような」感覚があると王谷。「自分や、他人、そして社会全体の曖昧な部分を確認することで世の中が良くなっていくんじゃないか」と続けた。

 また、作家としての「曖昧さ」についても言及。作者としても読者としても様々なジャンルの作品に触れていることから「一貫したテーマがないのがテーマかも」と笑顔を見せる。そして、「こちらの投げ方次第によって、10人10通りの景色を見てもらえるのが小説の魅力。バラバラな感想がうかがえるのも面白い」と届く反響を楽しんでいるようだ。

 今回ノミネートされたダガー賞はクライムフィクションが対象となっているが、サム・ベットは『ババヤガの夜』はジャンルにとらわれずに楽しめるレイヤーがあるとも述べる。「暴力で強さを見せることが大事な世界の話なので、暴力は暴力でもどこか演技的なところがある。そこが見せ方によっては笑えるので、英語版で読んでくれる方にも笑ってもらえるように頑張って訳しました。僕のプライベードな定義としてはユーモア小説かもしれないですね」と、こちらも笑顔に。

 そんな翻訳作業はどのようにして進められたのかを聞くと「私は英語が全く出来ないので、当時の担当編集者の方に間に入ってもらってやりとりをしました」と王谷。「サムさんから、例えば『誰がどの場所に立っているのか』というような箇条書きの質問をたくさん送っていただいて、それに私が1個1個日本語で返していくような形で作り上げていきました」と振り返る。

 当然ながら、本書の大きな魅力でもある漢字の読み方や言葉遊びなど日本語ならではの表現は、英訳することで完璧に再現できない部分もある。その点についてサム・ベットは「作品にとってすごく大事な存在だったら、他の部分で例えば動詞じゃなくて名詞として花を咲かせるというような細かな工夫をしています。英訳というのは、ある意味で同じ面積をもって別の言語で出来た別の世界のようなもの。そこで生きている人の動き方もある程度変わるので、そこをアジャストしないといけないですね」と語った。英語版のページをめくったときの感想を、王谷は「字幕版を見ているような感覚になりました」と思い返したように、日本語版と英語版、双方の言語で紡がれる世界を行き来する楽しみもありそうだ。

 日本文学に対する関心の高まりと、「曖昧さ」の中にこそある人間の面白さを見つめる眼差しから、世界へと羽ばたいた『ババヤガの夜』。このままの勢いで金字塔を打ち立ててほしいところだ。ダガー賞受賞作の発表は、ロンドン現地時間7月3日(日本時間7月4日早朝)の予定。歴史的な瞬間が訪れるのを、今か今かと待ちわびている。

■書誌情報
『ババヤガの夜』
著者:王谷晶
仕様:文庫判/並製/208ページ
初版発売日:2023年5月9日
税込定価:748円(本体価格680円)
ISBN:9784309419657
出版社:河出書房新社

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